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藤枝静男「悲しいだけ」を読んで

私の小説の処女作は、結核療養所に入院している妻のもとへ営養物をリュックにつめて通う三十余年前の自分のことをそのままに書いた短篇であったが、それから何年かたったとき友人の本多秋五が「彼の最後に近くなって書く小説は、たぶん最初のそれに戻るだろうという気がする」と何かに書いた。そのとき変な、疑わしいような気がしたことがあった。むしろ否定的に思った。
しかし今は偶然に自然にそうなった。本多の本意がどういうものであったのかは解らないままだが、今の私は死んで行った妻が可哀想でならず、理屈なし心が他に流れて行かないことは確かである。これまで偉そうなことばかり書いてきて、それはそれで気持に嘘はなかったけれど、しかし今となれば自分が如何に感覚だけの、何ごとも感覚だけで考え判断し行動する以外のことはできもせずしもしなかった人間であったことを識るのは、不安である。立ち止まりもせず、後戻りもせず、そのためのエネルギーを失った自分を見て日を送っているのである。

この短篇の出だしを読んで、ウルっと来てしまった。小説なり、文筆を用いて立身を志している者で、愛する者との別離を経験して10年…20年…そんな長い時間その者を忘れられずにいる者としてこの文章に触れたとき、心の奥底に隠していた激情がせりあがってくるのを押しとどめることができなかった。この文章、簡単に書けるようでいて、書けないんだよなぁ。理屈で生きてきて、それをうまく文章に書いてきて老境にさしかかり、それまでの自分を否定して「不安」だなんて、どうしても自分を飾って書いてしまうし、ナルシシズムがチラ見えしちゃう。「理屈なし心が他に流れて行かない」これもヘタしたらノロケだ。だって妻だけを好きってことだから。ここで面白いのが、短篇だからかもしれないけど、ここからさらに妻への思いがとうとうと続く…とはならないのよね。いきなりこの出だしの次の文章が

ひとり奈良に行き目的なしに唐招提寺に行った。

なんだ。フラっと一人で出かける描写が続く。ただ土砂降りの雨に打たれながら濡れた岩に座ってお尻が雨に濡れるのも構わず目の前の池を眺める…。時折妻のことを思い出してまたどこかへ出かけ、そして一人で風景を眺める、それが繰り返されるのがこの作品…と、簡単に言ってしまったけど、妻のことを思い出すっていっても、

私と妻との結婚生活は三十九年間であったが、妻の健康だったのは最初の四年間だけで、戦争末期に肺結核を宣告されたのちの三十五年間は、多少の小休止がはさまれた以外は、八回の長期入院と五回の全身麻酔手術と胸郭整形術と肺葉切除術と気管支の硝酸銀塗抹、それから乳癌の発見と摘出、そして再三にわたる転移。背中と脇腹には太いミミズのように盛り上がったケロイドが走り、胸は乳房を切りとられて扁平となっている。最後には癌性腹膜炎によって生を奪われたのである。

ちょっとまってグロいってw 普通にノロケたらいいのに、病弱な妻のかよわい姿を描写して「守ってあげなきゃ」みたいな甲斐甲斐しく、やつれて変わってしまっても愛し続けるいい夫、その描写でいいじゃない、と思うのだが、それだと野間文芸賞はこの作品では獲れなかっただろうなぁ。ちなみにこの病状や治療を詳細に書いているのは、藤枝静男が眼科医でもあるから。
ここでちょっと藤枝静男のことを書くと、抜粋した文章でわかるように昭和(1907年12月20日 - 1993年4月16日)の作家。この「悲しいだけ」は1979年に書かれたもの。妻は60歳で亡くなっている。そう、この作品は私小説である。最初、静岡県藤枝市出身でこの名前でしょ?物凄くテキトーにペンネームつけたなぁ、とそこも驚いた…というより苦笑した。もうちょっと真面目に考えてつけるでしょう、と。ただ、この作品を読んだあとにいろいろこの人についての略歴等を読んでみると(略歴を読んでしまうことにためらいもあった。なぜならバックボーンを知れば知るほど、作品そのものからは遠ざかる部分があるから。ただ私小説作家はバックボーンを知らないとわからない事情もあったのと、この作品が入っている講談社文庫「悲しいだけ 欣求浄土」の最後にバッチリ略歴が書いていたのでつい目で追ってしまった)、藤枝静男の高校時代からの友人に平野謙と本多秋五がいて、この三人で文芸活動をしていたようで、その二人の友人からペンネームも考えだされたそうだ。ただ、「静岡県にいる男」だから静男、ではなくて、高校の同じく同級生に北川静男という頭のいい人がいて、どうやらこの人は亡くなってしまったようだが、その人の名前から取ったようだ。そのことは他の小説に書いているみたいね。私にも親友は二人ほどいるが、同じ道にはいない。だからこういう交友関係は物凄く羨ましい。しかも高校時代から続くなんて!略歴から抑えたことはあと、この人姉とか弟とかいたんだけど、5人失くしていること。1歳で亡くなった妹もいれば、36歳で亡くなった兄もいたり、18歳や13歳で亡くなった姉もいた。死に取り巻かれていた、主に結核に起因する死に。藤枝静男自身も10代で結核にかかったとのことだ。
あとは、マルクス主義に傾倒していて、その団体に支援したということで逮捕され50日拘留されていたこと。戦前のことで、かなりキツかったろうと思われる。わからないのは若い頃性欲に悩まされた、とだけあって、具体的に例えば風俗に通い詰めたとかいう記述がないのでどういう性体験があったのか、はわからなかった。他の作品を読めば書いているのかもしれないが、少なくともこの作品にはその記述はなく、むしろ枯れた老人のような印象を持った。そりゃ72歳の作品だものね。

と、この作品のあらすじとか、私小説としてバックボーンもちょっと紹介するというまさに「読書感想文」ぽいことを今回はちゃんとしたわけですが、私はnoteでそういうことをしたいんじゃなくて、私自身の人生と過去に残された文章をクロスオーバーさせたいわけです。なので日記タグもつけている。その意味では、自分でも気づかなかったのだけれど、この文章を書き進めているうちに、「あ、この作品も死に関することだな」と思い至った。もちろん小説というのはどこかで死と結びついてるんだろうけど(人生が死を避けられないように)、確かにこの作品は妻の死に触れているんだけど、私が注目したのは死によって迎えた「別離」であって、死そのものではなかった。ただ結局、そこに引き戻されるのだな、という諦念にぶち当たった感じ。そして「不安」。そういう漠然とした(死への)不安を抱くとき、私も確かにふと、風景をみる。私の部屋からは天気がよいと窓から富士山が見える。最近は風が強くて、空気が澄んでいて夕焼けが綺麗だったり、雲の流れるさまが楽しかった。今日の東京は一面曇り。でも悪くない。

「妻の死が悲しいだけ」という感覚が塊となって、物質のように実際に存在している。これまでの私の理性的または感覚的の想像とか、死一般についての考えとかが変わったわけではない。理屈が変わったわけではない。こんなものはただの現象に過ぎないという、それはそれで確信としてある。ただ、今は一つの埒(らち)もない感覚が、消えるべき苦痛として心中にあるのである。
私の頭のなかの行くてに大きい山のようなものの姿がある。その形は、思い浮かべるどころか想像することも不可能である。何だかわからない。しかし自分が少しずつでも進歩して或るところまで来たとき、自分の窮極の行くてにその山が現れてくるだろう、何があるのだろう、わからないと思っているのである。今は悲しいだけである。

この結末の文章の前段で、妻が生前、藤枝静男の一族の墓に入るのは「いやです」と言っていて、しかし夫は妻の意向に逆らって二人で一緒に一族の墓に入ろうと考えている、というくだりがあるのだけれど、私にはその感覚はさすがにわからない。想像はほんの少しできる。私のクリスチャンの母が去年に亡くなったことは何度もnoteで書いているが、残された父はクリスチャンでもないのに、教会の納骨堂で一緒に入りたいと言う。藤枝の場合とは逆なのかもしれないが、ずっとお堅いサラリーマンだった父は何でも堅実にやってきたのだけれど、なぜか墓に関してだけは、かたくなに建てようとしてこなかった。家を継いでいるわけではないので、ずっと墓を建てたら、と私と兄がアドバイスしていたのに、だ。その矢先の母の死で、息子の立場から考えると「面倒だから母に合わせる」としか思えない態度で自らの骨の居場所を決めた。そんな父の姿勢に不満を抱いてはいないが、戸惑いをずっと感じてはいる。なぜ不満を抱かないのか…それは父の一族への思いがあるからだろう、と考えはあるが、その事情はまたの機会にしておこう。ここで述べたいのは藤枝が最後に記した「大きい山」「わからないと思っている」こと、そのパースペクティブだ。いや、そんなカッコつけるほどの言葉は今の自分にはないなぁ。それこそ究極的に「わからない」からだ。強いて言えば「きざし」のようなものだろうか?読後から今まで、結びの「悲しいだけ」というのはわからないから諦めてそう言い放っただけだと思っているのだが、もちろんそれは私の浅い読み方のせいで、さらに深い「なにか」があるのは間違いないだろう。ただ私にはわからない。と言ってしまったら身も蓋もないし、私自身悲しくなるので強引にでも掘り下げて考えるならやはり私自身と結びつけて導くしか手はなく、簡単に頭に浮かぶのは「避けられない死のプレッシャーの大きさが山のように前方に立ちふさがっている図」となるのだけれど、それならハッキリ言ってもいいよね?わかりやすく提示するのがダサいと思ってワザと大げさに書いているの?いやいやこんなことじゃないでしょう…もっと仏教的ななにか?仏性とでもいうような?いやいやそんな暖かい概念でもないよねぇ、とはいっても、宗教的な深い考えなら私にもそりゃわからないよ…うーん、何だろう?ここはわからないと素直に書いてしまったほうがうまくまとまるのかな…とはいえ日記でもあるので、うまくまとまらなくてもそこはそれでよいかな、と思ったり、あ、そうそうオリックスがついに24年ぶりの10連勝で単独首位に躍り出て嬉しいな、いやいやそんなことで誤魔化そうとしてもダメでしょう!

死や人生を考えると「不安」がどうしても先に来る。しかし、藤枝静男がそれを考えるとき、少なくともこの作品ではもう不安なんて考えてなくて、わからないけど悲しいだけなんだ、としている姿勢そのものが述べるべき点なんじゃないだろうか。私にとって「悲しいだけ」と吐露するには、ノドに詰まった大きなカタマリを吐き出すようなもので、それはそれで大変な勇気が必要で、今の私にとって蛮勇になってしまうとも言える。もっと死と寄り添わないとわからないのか、それともむしろ生に寄り添うほうがいいのか、やっぱり最終的にわからないのか、ただ、一歩ずつでも歩みを止めないことが大切なんだよね。さて、マクドナルド50周年の記念発売のハンバーガーでも買いに行こう。お腹空いた…

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