見出し画像

タイピング日記045 / もしもし下北沢 / よしもとばなな 7頁〜14頁

私が下北沢に住みはじめたのは、お父さんが、私やお母さんの全く知らない、遠い親戚だという女性に茨城の林の中で無理心中に巻き込まれてしまってから一年後くらいだったと思う。
その女性は、お父さんに相談を持ちかけているうちに深い関係になり、お父さんは彼女に誘い出され、お酒の中に睡眠薬を入れられ、彼女の運転する車で人気(ひとけ)の少ない集落の近くの林の中に連れていかれ、彼女の持ってきた練炭による一酸化炭素中毒で死んだのだった。もちろんその女性も死んでしまった。車はしっかりと目張りしてあり、他の犯罪を疑う余地はなかった。
私のお父さんは、簡単に言うと、心中という雰囲気ではあるけれど「殺された」ということなのだった。
それに関してどれだけの現実的な場面があり、具体的な判断があり、私とお母さんがどれだけのものを見たり聞いたりしなくてはいけなかったのか、細かく語るのはよそうと思う。
あまりにも受け入れがたいショックなことが多すぎたから、まだ整理できていない。
その時期のことは、記憶もとぎれとぎれだった。もしかしたら、全部を振り返ることは一生できないのかもしれない。どうやっても割り切れないものが増えていくのが人生だとしたら、このことに関する割り切れなさは一生分くらいの大きさや深みがあった。
最近やけに一白の地方ライブや朝帰りが多いね、いい人でもできちゃったかな。でもお父さんには家族を捨てる勇気はないんじゃないかなあ、もしそんなことになったらどうする? 変わらず暮らしていくしかないかな、深く考えてもしかたないし、待っていれば戻ってくるでしょうね、などとのんきに言いあっていた私とお母さんは、警察からの突然の連絡にただただ驚くばかりだった。
泣いたり、わめいたり、暴れたり、しばらくの間はなんでもやってみた。とにかくなんでもかんでも。お母さんといっしょに、またはばらばらに、または交互に支えあって。
音楽業界にいたお父さんが女性とちょっとくらい浮気するのはあたりまえのことだし、あまり突っ込んで監視すると家族が壊れちゃうものね、と変なふうに気をつかってしまい、お父さんの自由な毎日をある程度あきらめて野放しにしていた自分たちを責めもした。
ツアー以外では、たとえ夜明けに帰ろうと外泊をしないのはお父さんのけじめだったし、彼はお母さんや私とした約束がどんなに小さいものでも、手帳につけたり、手の甲に書いたりして、必ず守った。今でもお父さんの手を思い出すと、メモが書いてあるイメージが浮かんでくるほどだ。
「牛乳買ってきて」から「来週いっしょに餃子食べにいこう」まで基本的には全部守ってくれたお父さんは、バンドマンである前にお父さんとしてほんとうに良い人だったのだ。だから私たちはすっかりのんきになってしまっていた。
だからお父さんがそんなふうに死んでしまってお葬式を出してからも私たちはただ驚いていて、お父さんがいなくなったことを実感するのにずいぶんかかった。
相手も死んでしまったからもう裁かれようがないわけで、割り切れないまま、いろいろな気持ちの行き場のないままに、すうっと全部が終わってしまった。もしかしたら多少血縁関係があるらしい彼女の身内を探し出してお金を請求してもしかたないし、会いたくもなかった。
そもそもその彼女は生まれてすぐに養女に出されており、死ぬ前の彼女は養女に出された先を家出してからずいぶんとたっていて、身寄りがないのも同然だったらしい。それさえやむなく耳に入ってしまった情報であり、ほんとうを言うとそういうことさえも知りたくはなかったので、お母さんと私はなにも行動しなかった。
その人の遺体をじっと見ることはなかったけれど、写真で見た生前の彼女は、ぞっとするくらい白く美しい狐か蛇みたいな人だった。そのこともショックだった。お父さんがこんな色気にだまされてしまうなんて、そう思えた。もちろんお母さんはもっとショックだっただろう。
日常とはそんなときでも続けなくてはならないし、続いてしまうものだ。私は、道を歩いているだけなら他の人となんの違いもないように普通に見える自分を不思議に思った。中身はこんなにめちゃくちゃなのに、普通の私が今まで通りにショウウィンドウに映っていると。

お父さんの死からおおよそ一年がたった頃、お母さんが多少立ち直ったように見えたのを見計らい、私も自分の人生を始めなくてはと思いたった。
短大を出てからすぐに専門学校で料理を習い、やっと卒業して、友達の店を手伝ったりしながら仕事をゆっくりとさがしていたのだが、そんなことがあったのでしばらく全てがストップしてしまっていた。専門学校の友達と新たにお店をやろうかという計画もあったがそれどころではなくなり、なにもかもが白紙になってしまった。
私は実家であるマンションの部屋を出て、友達のお母さんがやっている下宿屋の二階を借りることにした。そこには友達が住んでいたのだが、彼女が結婚してイギリスに住むことになったために部屋が空いたと聞き、ためらいなくそこに決めた。下北沢の駅から七分の場所にその部屋はあった。
それから私は同じく茶沢通りの沿いにある、部屋から一分、真向かいのお店レ・リヤンで働きはじめた。小さいお店なので厨房もフロアもドリンクもなんでも手伝うことになり、いきなり忙しく毎日が回りはじめた。
家の中の重く苦しい空気がやっと少し晴れてきたと思った頃のひとり暮らしは格別だった。やっとお父さんのことをふっきって、自分の人生を始められる、そう思った。
お茶を飲むのも、朝起きるのも、やっと楽しく感じられるようになってきた。環境を変えるというのはすごいことだ。もう朝起きてもお父さんの不在について考えなくてもよかった。
実家だとどうしてもそのことがまるであぶり出しみたいな自然さで毎朝じわじわっとあちこちからわいてきて気持ちがもやもやしてしまうのだ。
古い一軒家の二階全部を借りていたので充分な広さはあったがものすごく広いわけではなく、西日ががんがん入ってくる和室ふた間と二畳分のキッチンだけのシンプルな部屋だった。夏はどんなにクーラーをつけても少しも冷えないくらい強烈な西日だった。
お風呂も古く小さな浴槽はタイルばりだったが、シャワーだけは入居時につけかえられてぴかぴかだった。古い家のにおいがいつもぷんとしていて、たたみもすっかり焼けてしまっていて、コンロも古い型だったし、私が持ち込んだオーブンレンジを使うと電源がしょっちゅう落ちる、もちろんドライヤーなんてもってのほか、真っ暗な中でないとかけられない、そういう「今どきこんなところがあるなんて」と遊びに来たみなに言われる、渋いところだった。
それでも少しでも貯金をしたかった私にとって、その広さ、職場からの近さはとにかくありがたかった。友達のお母さんであるところの大家さんは一階には住んでおらずテナントとして貸していたので、私の部屋の下には小さな古着屋さんとカウンターだけのファンシーな内装の小さなカフェがあった。コーヒーはおいしくないしクッキーは生焼けなのでそこには滅多(めった)に行かなかったけれど、かわいい女の子たちがにこにことやっているお店だったし、昼はいつもそこに人がいて安心だったし、夜はどんなにうるさく音をたてて歩いても、音楽をかけても、洗濯しても、階下にはとがめる人がだれもいない、それも魅力だった。

しかし楽しい時期は短かった。ある日突然、ほとんど手ぶらで、お母さんがその部屋に転がり込んできたのだ。
それはかんかん照りの夏が急にその手をゆるめたみたいに突然に空が高くなり、風がふっと冷たくなって、まさに秋になろうとしている季節の、しとしと雨が降る夕方のことだった。

「もしもし下北沢」
よしもとばなな・著

P7〜P13


よろしければサポートおねがいします サポーターにはnoteにて還元をいたします