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消えた小説(16章)、上野まで、上野駅


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■ 一六章(三月二十三日・木)デートの日


 朝からくもりだった。

 家をでて、直進すれば県道だが、橋本屋の自販機を折れて烏川にでて川沿いを北に登った。それから牛舎がならぶ農道にでて、男の住む町の麦畑が広がる農地と駒形町をへだてる住宅地にでた。高圧電線が高くそびえる鉄塔沿いに北にペダルとこぐと、地元でぽっくり観音堂とよばれる合同霊廟にでた。そこからさらに北へ登っていく。県道沿いの十字路に新しくできたばかりのセブンイレブンが建っていてそこで男はペットボトルの水を一本買った。

 十字路を渡った反対側の道沿いに、屑鉄や旧型の冷蔵庫や車のボディーがうずたかく積まれた敷地に、間歇的に機械音が鳴りひびく工場の群れがたちならぶ。それら工場群の敷地のなかに高い壁にはさまれた「これより通学路」と書かれた根元が曲がってかたむいた青色の道路標識が立つ路地を道なりにつたってすすむと駒形小学校の校庭が見える。正門の前にある廃業した文房具店の三叉路に入って右に折れると駒形神社にぶつかる。その住宅街を曲がりくねった道なりのどんつきに、白い砂が風に舞う白い金網に囲まれたグラウンドが現れた。敷地は小さい。西陽があたる砂利が敷かれた駐車場側に西洋の中世風の緑色の門が立ち「社会福祉法人・若鷹会・幼保連携型認定こども園、こまがたこどもパーク」と金色の文字で真鍮のプレートが打ちつけてあった。

 園をかこむ柵のうちがわに一本、空を覆うような大きなケヤキの木が生えていた。男は背を反らせて、立派なケヤキの木を見あげた。

 園庭ではたくさんの子どもたちが走りまわってあそんでいた。そのなかでひとり、ほほを赤くさせた少女が、男の立つがわの金網に上半身を乗りだして、男にむかってはっきりとなにかをさけんでいる。

 男は金網に近づいて自転車を止(と)めた。

 ほほの赤い少女は、丸顔にしわを寄せて、男にあっかんべーをした。

「ケヤキだよね。この大きい木は」

 男はほほの赤い少女にたずねる。

「そんなのしらねーよ! 」

 大きな声で、男は返された。

「おめえ、木が好きなのかよ」

「木っていうか。植物はみんなすきだよ。あそこの象の滑り台の横の木はムラサキモクレンだね。紫色が濃くてあざやかで、とてもきれいだね」

 男は頭に汗を感じてヘルメットを脱いだ。

「じゃあ、この大きい木はよ。いまからおれがさゆり園長せんせいに聞いてきてやるよ! 」

「急いでるから。あとでね」

 男は立ち去ろうとした。

「さゆり園長せんせいはよ、ぜったいにしってっからよ! 」

「急いでるんだ」

 男は立ち去ろうとした。

「急いでるのかよ! 」

 少女の声の張りに、さけびのような妙な印象を受けて男はふりむく。「だからぼくは急いでいるんだ」と男は言えなかった。ほほの赤い少女は洟水(を)をすすりあげた。顔をよくみると涙ぐんでいるようにも窺(うかが)える。

「またあとでここに寄るよ」

 男は笑ってロードバイクのサドルをまたいでペダルをふむ。

「あした誕生日なんだ! 」

 男は両手でブレーキをにぎってふみこむのを止(や)めた。ほほの赤い少女は拳をグーパーグーパーとさせている。そのとき男はそれに違和感は覚えなかった。

「ほんとうに? それは誕生日おめでとう! いくつになったの? 」

「よっつだ。いつつ、だったかな」

 ほほの赤い少女は、また手のひらをグーパーグーパーとさせる。男の目の前で、金網の痕がのこる小さな手のひらが、開いたり閉じたりする。

「よかったね」

「でもおれ、明日のプレゼントない」

 ほほの赤い少女はだまりこんだ。

 それから沈黙がしばらくあった。家庭の事情でもきっとあるのだろう。男は思った。

 大きなケヤキの木はつよい風に押されて重心をずらす張り子のようにかたむいた。

「なんで? 」と男はなぜか少女に訊けなかった。ほほの赤い少女が、まだ手のひらをグーパーグーパーさせている。それが男の目に焼きついた。手のひらのグーパーグーパー。なにかの合図だろうか? 男は思ったがそれがいったいなにを示唆するシグナルなのか、男はわからない。

「三日前は、ぼくの四十六歳の誕生日だったんだよ」

 男は言おうとして止(や)めた。ほほの赤い少女が男を見つめるまなざしは芯がつよく切迫感があった。誕生日を祝うとかいう目ではなかった。男は妙な緊迫した心持ちになった。

 ほほの赤い少女は、金網を両手で目いっぱいにつかんだまま、自分の顔を男のほほに近づけてきた。ピンク色をした割れたくちびるを、ガチョウのようにとんがらせ、男の顔にゆっくりと近づけてくる。粘着質の、エメラルドグリーン色が混じった洟水(はなみず)がびらびらとする。少女の鼻息が男の耳にかかる。温かい。妙な色っぽさを感じて男は唾をのむ。それからほほの赤い少女の乾いたくちびるが男のほほにくっついた。くちびるの中から、小さな舌がでてきて男のほほをつついた。舌は男のほほを、なめまわした。

「さゆり園長せんせーい。変な人がいるよー」

 ほほの赤い少女は給食室と思われる緑色の鉄筋建物の脇に立つ木造の母屋へ走って行った。

 自分の手のひらを見つめて男はグーパーグーパーをしてみる。

 ハッと男は顔を下にむける。股間が固く盛りあがっている。

 ほほにあたる風は湿り気を帯びていて空を見上げると、雲行きがあやしくなっていた。ヘルメットをかぶり直して男はペダルをふみこんだ。

 こまがたこどもパークの角を左に折れると、北関東自動車道の高架下に入った。そのまま遊歩道に沿った道沿いにペダルをこいだ。

 駒形バイパスを渡って広瀬川をこえた道の両脇に若木に見えるハナミズキが立ちならぶ。うまく咲けば来月の今頃は満開になるだろうな。男はおもう。カーブをまがって教愛学園をすぎると藤岡大胡線の陸橋が姿をあらわした。右手の白色の角張った建造物の角から女子高校生が集団になって現れてこちらへ歩いてきた。みな楽しそうに笑っていた。

「それでミキはなにを占ってもらったの? 」

「元カレのこと」

「で、なんて」

「両目をね、こういうふうにふかくつぶって」

「両目をこうふかくつぶって? 」

「すんごく低い声で」

「すんごく低い声で? 」

「過去は絶対に、ふりかえるな。だって」

「ぎゃはっは」

「マジでクサなんだけどー」

「でも、あのおじいさんかわいくない? 平家の子孫なんだって」

「自称でしょ。マジでウソクセーんだけど」

「でもメッチャ純日本のかおしてない? 」

「ザ・ニホンだよ。マタギみたいだよ」

「マタギってなに? 」

「木こりよ。カールおじさん」

「あーね」

「あーねって」

「カールおじさんは純日本風の顔ってことなの? 」

「それもクサ」

「帰りにさ、カールおじさんかこんでティックトック撮らない」

「あのアニメダンスやっちゃう? 」

「まじでウケるんだけどー」

「ウチらと踊ってくれるかな? 」

「カケようか」

「わたしはやりたいなー」

「マユのそれ、カケじゃねーし」

「マユのはただの願望だもん」

 男はロードバイクを降りた。白い角張った西洋のそれも極北の古城風の建物がそこにあった。男が知るかぎりそこは市営の駐輪場だったはずだ。男はロードバイクを推(お)して南口ロータリー前までまわりこんで氷の国の古城のような建造物を見上げた。

 駐輪場の入り口のアーチには巨大な鹿の剥製のようになった白いトロールの怪物の顔が口を大きく開けていた。駒形駅南口駐輪場と書かれた真上に「NorthMonster」と濃紺のアルファベットのタイルがテーマパークのごとくならんでいる。ネーミングライツだろうか。ググってみると北海道に本社がある新興のアプリゲームの会社だった。アプリゲームの名前をつけた、新生駒形駐輪場の、中世の氷の城を模した建造物のなかへ男はロードバイクを押して入った。入ってすぐの看板に、年定額と月定額の矢印がある。

「一日だけなんですけど、おいくらですか? 」

 男は小窓に見える老人にたずねる。

「二百円だよ」

 一坪ほどの料金スペースのなかで老人は、パイプ椅子に座って足をぶらぶらさせていた。

 パイプ椅子から老人は立ちあがった。

 受付の老人の背は異様に低かった。小窓の外からどう見ても男の膝下までしかないように見える。受付の背の低い老人は首に巻いた白いタオルでグレー色の作業着と緑色のズボンの尻を、ぽんぽんとはたいた。麦わら帽子をとって脇にでっぱる帽子掛けにかけた。

 男は背の低い受付の老人を見つめたまま、まばたきを二回した。先ほどの女子高校生が言ったとおりの、カールおじさんそのまんまの人物だったからだ。

 背の低い受付の老人は小窓から小銭のトレイをさしだした。トレイのとなりに緑色の陶器のカエルの置物があった。

「千円でいいですか」

「いいよ」

 背の低い受付の老人は泥棒ひげをぽりぽりとかいた。

「聞いていいですか」

「どうぞ」

「二十二時を過ぎるとこの扉、閉まっちゃうんですよね」

「もちろん施錠するよ。月極もある屋根つきの公営駐輪場だからね」

「そうですか」

 男はしばらく黙った。

「どうしたの」

 背の低い受付の老人は目をつぶる。まぶたは弦のように細くなる。それから目をつぶったまま片手で、五百円玉一枚と百円玉三枚、計四枚の八百円を、天井すれすれまでほうりあげた。男は宙に舞いあがった四枚のコインをじっとみつめた。四枚のコインはまるで映画のモーションピクチャーのように宙空のうえで止まって、ゆっくりと回転をした。背の低い受付の老人は落下するそれらをたくみにキャッチした。男がだまっているあいだ、受付の背の低い老人はそれをなん度もくりかえした。

「帰りの時刻がわからなくて。正確にはこれから上野駅で待ち合わせた、ある女性とデートをするんです。彼女はお酒をたしなむようなので。だから自分の帰りの時間はわからない」

 男は正直にいった。受付の背の低い老人は宙空でばらばらになって落下する四枚のコインは見ずに、快活に笑った。

「素直な青年だね」

 カチャ。

 たかい音をたてて四枚のコインをキャッチする。

「四十六です」

 男は頭を掻(か)いた。受付の背の低い老人はトレイの横にある黄色い札を指さした。

「私から見たら青年だよ。このね、黄色い札に記入してくれたら時間外で外にだしておくよ。料金は無料だ」

「そうですか」

「那須与一」

「え? ナスノヨイチ? 」

「一度しかやらん。だからようくみてなさい」

 といって受付の背の低い老人はパイプ椅子のうえに立って、四枚のコインを上空にほうり投げた。天井すれすれまであがって中空でバラバラになった四枚のコインは不思議なことに、横真一文字にならんだ状態になって落下してきた。いやもしかしたら、落下する途中で四枚のコインが横一列に整列してくるようにも感じた。老人がいったとおり、男がそれを目撃したのはそのタイミングたった一度きりだった。

 パイプ椅子に立った老人は、男の目の高さで、ならんだ四枚のコインを一気に矢で射るようにガシャと手中に収めた。

「いまのコインの決め技は『那須与一』という技だ。ほらこの会社のアプリゲームで言ったらば… 」

 老人は建物のアーチから口を開けて顔をだす怪物を指さした。

「『ギガント・スラッシャー』みたいな必殺技だよ。星六くらいのレベルのすごいやつだ」

「すみません。ぼくゲームアプリはまだしたことがなくて」

「わたしはコイントス世界選手権の元世界チャンピオンなんだ」

 男は頭を下げて釣りの八百円をうけとった。四枚の小銭は、温かかった。

「多くを語る勿(なか)れ」

 受付の背の低い老人はパイプ椅子に腰かけて、両足を前に投げだしてぶらぶらとさせる。

「どういうことですか」

 男はたずねる。

「口は災いの元ってこと」

 受付の背の低い老人は言った。男は八百円を財布に収めた。

「汝、多くを語るれば、それら言葉はみな刃と矛となりて、自らに向かってくるであろう」

 男は首をかしげる。

「これから会う彼女となにもしゃべるなってことですか? 」

「なにごとも、ほどほどにってことだよ」

 受付の背の低い老人は笑った。室内ライトの何かの加減だったのか、老人の泥棒ひげは黒く光った。

 ガチャン。

 黄色い札に、日付は押された。男は日付のついた黄色い札をロードバイクにくくりつけた。

「がんばるんだよ」

 男は受付の窓に頭をふかくさげた。

 急いでいたので男は老人にはふりかえらずに階段を駆けあがった。駅の改札を通って伊勢崎行きのホームに降りてから、ふと気になってググってみる。コイントス世界選手権なる大会が世界のどこかに存在した記録はネット上にはどこに見当たらなかった。

 多くを語る勿(なか)れ。

 ホームのベンチに座った男は思った。受付の背の低い老人は「那須与一」など言わなかったら、男はコイントス世界選手権をググらなかったかもしれないし「コイントス世界選手権」などと言わなかったらば男はそもそもググろうとはしなかったにちがいない。やはり老人から男へのなにかの警句だろうか。だが老人の警句についてこれ以上深く考えてもなにも始まらないと思った。老人の警句は忘れよう。女の前ではありのままの自分でいよう。男は思った。バッグからペットボトルを取りだして、ぐいと喉を湿らせた。

 携帯アプリが示す駒形駅発八時三十四分の、両毛線伊勢崎方面の鈍行列車に男は乗った。五分ゆられて、次の駅の終点伊勢崎駅でおりると男は地元の駅ビルの変わりように戸惑った。五分ほど建物から出たり入り直したりして道に迷ってしまった。紺色のリクルートスーツを着た若い女性に道をたずねてようやく出発時刻ぎりぎりに東武伊勢崎線の改札に入った。ふたつの改札は互いの発券機をはさんだ真隣だった。


 館林駅で乗りかえて久喜駅でまた中央林間行きに乗りかえた。北千住駅で日比谷線に乗って上野駅に着いた。田舎から上野に出るまで四時間かかった。乗りかえの間隔は一二分しかなく男の膀胱はふくらんでいた。途中でトイレに降りようとしたが降りたらば、遅刻だった。なんだか携帯アプリに操られている気がするままに男は地下道を早足で歩いた。JR上野駅の浅草口から中央口改札前にかけあがった。左手の小さな薬局からは白い光が溢れるように漏れていて、右手にいくつもの改札が、まるで競馬のゲートのようにならんで見える。

 平日なのに上野駅の中央改札は人でごった返していた。久しぶり(九州に引きこもって、いや、厳密には学生時代から二六年ぶり)に見た東京の人ごみに男は体がまるごと呑みこまれそうになった。胃から胃液があがってきて口を両手でふさいだ。つばを飲みこむ。口内に酸っぱい味が広がった。

 そこで男は今日、目覚めてからミチに会う緊張のし通しで口に何も入れていないことに気がついた。空腹で、胃が強烈に痛んだ。

 目の前はみどりの窓口がみえる。その真上に、エゴン・シーレ展の巨大ポスターが宙吊りになっている。斜に構えたカメラ目線の彼の自画像が男を挑発的に見おろしていた。

 人ごみをかき分けて男は、以前ラインで送られてきた田中未知子の姿をさがした。が、それは病院のような施設の玄関(それも夜間救急のような所)から出てきたマスク姿の顔のアップで、ピントはズレて、真半分に切れている。コロナ禍はわかるがマッチングアプリのプロフ画像でなぜマスクをするのか。男は熟女のやることに理解ができなかった。

 途方に暮れそうだ。この写メだけで人だかりの上野駅中央改札前の田中未知子を探しあてるのは望遠鏡だけで人類が踏んだことのない月の裏側のクレーターの数を数えるのとおなじくらいむずかしいと思った。腹は空腹ではげしい痛みが突きあがる。飲んだ水が熱湯のように胃からあがる。下腹部は膀胱が破裂しそうだ。トイレに行きたいと思った。

 男はみどりの窓口の横に銅像を見つけた。全裸の女が天を仰いで両手を広げて立つ。プレートに「待ち合わせ場所・翼の像」と書いてあった。

 男はその銅像を写メしてミチにラインで送った。

「いま着きました」

 すぐに返信は来た。

「あきちゃん、どこにいる? わたしは中央改札でたところにいるよ」

 ミチから、中央改札上に乱立する発車標の電光掲示板の写メがとどいた。写メにはコンビニのNewDaysが映っていた。男はふりむいてコンビニを見たがその見方はちがうと思った。コンビニを撮影した地点がミチの立ち位置のはずだ。えっ。これはもしや、男は思う。このままふりむけば、真正面に田中未知子は立っている、はずだ。

 鼓動は、否が応でも高鳴った。ゆっくりと、男は、ふりむく。

 胸の高さの位置に、背の小さい五十過ぎの女が立っていた。田中未知子だった。

 ミチは、背は小さい小顔の女だった。短髪に切った髪はところどころ茶色に染めていた。この間、ラインをしている最中に「美容室に入るね」ととつぜん切られて、かるい喧嘩をしたのを思いだした。奥二重で眉は濃い。肌はファンデーションをほとんど塗っていないようだ。肌は色白でしっとり濡れ、艶やかに光っている。金魚が刺繍された木綿のマスクをつけていた。服装は、紺色のスポーツパーカーにブルージーンズ、緑のアディダスのスポーツシューズを履いていた。灰色のバッグを胸にまわしてだいていた。まるで赤ん坊をだき抱えるように。男は笑いそうになった。田舎から出てきた少年のようだった。

「アキちゃんじゃない! 」

「うん。ミチだね」

 男は笑った。

「アキちゃん。なにニヤニヤしてるの? 」

「かわいいからさ」

 男は素直に言えなかった。

「リュックを胸に抱えもってさ」

「私、おのぼりさんみたいってこと? 」

 ミチは口をとんがらせる。男は笑った。

「そう。ミチ、おのぼりさんみたい」

 二人は笑った。ミチはリュックを背負い直した。

 それから男は、勇気をふりしぼる。

「手、つないでいい? 」

「え、いきなり? いいよ。どうせだから貝殻つなぎしようよ」

「かいがらつなぎ? 」

「ほかになんていうの? あ恋人つなぎね。私は若いときはこう言ったんだけどなー」

 男はミチの手をにぎった。指はみじかく手のひらは冷たかった。

「アキちゃん、手、大っきいねー」

「高校時代はサッカー部で手が大きいっていうだけでキーパーになった」

「ほんと! 」

「厳密には、正キーパーの先輩が靭帯断裂の半年の大怪我をして、僕らの世代にキーパーがいなかったから。背と手の大きさで監督からグローブを渡されただけ」

 男は言った。

「でもレギュラーだったんだね」

「最初は野球の試合みたいにゴールを入れられてチームに迷惑をかけどおしだったけど。コツをつかんでからはなんとか、がんばれたかな」

「へー。アキちゃんの世代って、もしかしてもしかして… 」

「たぶんそれ、ビンゴ。ちょうど高校一年のときにJリーグ開幕だった。なんかバブリーに盛りあがったなあ、あの当時は」

「テレビでカズがバルーンから登場するシーンはまだ脳裏にふかく焼きついているな」

「カズはまだ現役だよ。今季は横浜FCの親会社が株をもつポルトガルの二部のオリベイレンセに期限つきで加入した。海外で現役のプレーヤー。五十六歳だ」

「えっ! 」

 ミチは口に小さな手を充てたまま、息をのんだ。

「五十六歳でプロサッカー選手だよ。すごいってか、恐ろしいよ」

「私とおなじ年齢だ。やだ、ほんとにすごいんだけど」

 ミチは小さくつぶやいた。それからミチは見開いた目を輝かせた。男は、カズは見知らぬ人間のミチに希望を与えている。五十六歳。キングカズ。中田を中心とした黄金世代に押しだされてカズはもう世代遅れだと文句を言った人間も多くいたようだったがやはりカズは偉大な選手なんだな。あらためて男は思った。

「ぼくと同世代といえば群馬出身の松田直樹だ。日韓ワールドカップ大会でトルシエジャパンに選ばれてベストエイトになった。でも練習中に心肺停止で病院に運ばれて、そのままわかく三十四歳にして亡くなった。かれとぼくの誕生日はたった六日ちがいだ」

 ミチは松田直樹の話にはまったく興味を示さなかった。以後、男は(少なくとも今日は)ミチとサッカーの話はやめることにした。

 ミチは男が話しているあいだ手のひらの握力を入れては抜いて、ぎゅっ、ぎゅっ、とさせていた。ミチの手のひらはまるで心臓の鼓動のように、収縮をする。

「駅の外に出る前に、トイレに行っていい? 」

「いいよー」とミチは笑った。

 迷った。

 男はミチと手をつないだままトイレを探すことになった。

「私、ここで待っているね。ゆっくりと行ってらっしゃい」

 千疋屋の電光看板がある柱の前で、ミチは男の手をはなした。

 男はケータイの修理屋と和菓子店がならぶ通路をぬけて、原因は雨漏りなのか天井にビニールシートが貼られた(ビニールにつながったホースは壁を伝って下に置かれたポリタンクに刺さる)トイレの入り口を見つけた。

 男は洋式便器の所に入りたかった。大便の所は、ぜんぶふさがっていた。男は数分、小便器で用を足す人らの後ろに立って、順番を待った。待っているあいだ男は、どうやってこのトイレまでやってきたのか、ミチはどこに立って待っている(千疋屋の看板はわかるが、その柱が上野駅のどこにあるのか皆目わからない)のか、ミチが待つ柱までまたどうやってもどればいいのか、わからない。それと、小便が漏れそうな問題とは別のもうひとつの問題があった。

 太った男といれちがいに開いたトイレに入ると、便器のふちに、柔らかな黄色い大便がべっとりと付着していた。甘い臭気が鼻をつんざく。男は大きく息を吸いこみ、息を止めて、二度三度トイレットペーパーで便器を拭いてながした。息を吐きだしても甘い黄色い大便の臭いは鼻についた。

 男がズボンのファスナーを下ろした瞬間、男の、固く勃起した性器が跳ねあがってきた。根元を押さえ、腰を折って小を足した。

 パンツの股間の部分が性液のようだがすこしちがう透明なぬるぬるした液体でぬれている。鬼頭をつかんでいた二本の指のあいだの水かきで二度三度、透明な液体をしごいてぬぐった。

 男はウェットティッシュを取りだして性器とパンツのぬれた箇所をぬぐいながらゾッとする。ミチは、男の股間の盛りあがりに気づいていただろうか?

「まだかよ。おせ〜なあ」

 壁の外から若い、あまり柄が良いとは言えない男のハスキーボイスが聞こえてくる。男は咳きこんだふりをして、トイレットペーパーをカラカラと音をさせ、水洗を流してトイレをでた。

 千疋屋の看板の柱にもどるとミチはラインをしていたようだった。

「まったかな」

「ううん。溜まったラインとか処理してたー」

 顔をあげてミチは男に笑った。

「じゃあ、手つなごう」

「あっ」

「どうしたの? 」

「なんでもない」

 男は笑った。手を洗うのを忘れていた。


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