【小説】グレープフルーツムーン#7
すっかり明るくなった彼女の部屋のベッドで目を覚ます。英理奈さんはまだオレの腕の中で丸くなって眠っていた。初めて見た彼女の寝顔は普段より少しだけあどけなく見える。
しばし可愛い寝顔を存分に眺めてから起こさないように慎重に腕を抜きスマホに手を伸ばす。そういえば昨日彼女と合流してから電源をオフにしたままだった。オンにして時間を確認する。
9時25分だった。
「やばっ!」
思いのほか大きい声が出てしまった。驚いた彼女が目を覚ます。
「あぁ、ごめん」
「大丈夫、…今何時?」
「9時25分」
答えながらベッドから降りて急いで服を着る。昨日びしょ濡れになった服はもうすっかり乾いていた。
「バイト?」
「バイトもあるけど、その前にバンドのミーティング。みんなの予定が今日の午前中しか合わなくて」
「間に合う?」
「ギリギリ…」ここから直接集合場所に向かうとしてギリギリ、間に合わないな。
「ごめん、先に起きて朝ごはん用意しようと思ってたのに…」
そんな可愛い事言われると帰れないんですけど…。今からの予定のすべてが煩わしくなる。
「次期待しとく」…次があるのかはわからないが。
まだベッドの上で布団にくるまって座っている彼女に軽くキスをして「また連絡する」そう言って玄関へ向かう。
「鍵、後でちゃんと閉めてね」
「…うん」
靴を履いてドアを開ける瞬間立てかけられていた2つの折り畳み傘が目に入ったが、オレはそれをあえて無視して彼女の部屋を出た。
空は昨夜の大雨が嘘のような快晴だった。
バンドのミーティングの集合時間にはやっぱり少しだけ間に合わなかった。
「おせーよ!」
少し神経質なドラムの湊は遅刻にもうるさい。
「…まだ来てないやついるじゃん」
ギターの長田はオレに負けず劣らず時間にはルーズだ。
「はよーっす」
ほどなくして長田も来てメンバー全員揃った。
「おまえらマジでそろそろその遅刻癖なんとかしろよ」
「はいはい、つーか日曜日午前中集合とかそもそも無理だわ」
不健全、不健康な夜型属性のバンドマンが日曜日の午前中ファーストフード店でミーティングとか、ありえない。
「オレは普通に起きてるけどね」ベースの小原、おまえはどうせ朝からアニメでも見てんだろ。
「僕も起きてるよー。日曜日の朝は一週間分の常備菜まとめて作るって決めてるから。だから今日は時間無くてあんまり作れなかったんだよねぇ」キーボードの斉藤、主婦か…。
「で?この前言ってたイベントどうなった?」
せっかちな湊がさっさと本題に入ろうとする。
「あぁ、再来月の頭の土曜日で、大学のOBの人なんだけど、ちょっと前に紹介してもらって、その人がやってるバンドの主催の定期イベントに呼んでもらえた」
ライブのブッキング等は基本オレが中心に動いている。
「ハコは?」
「○○のHARVEST」
「…マジか、オレ初めて出るわ。…もちろんノルマ、あるよな」
「うん、今回はマジでいつも以上に集客頑張んないとマズイ」
ちなみに今までのライブでノルマを完全にクリア出来たことはまだ無い。なのに、いつも出させてもらっているライブハウスと比較するとキャパは100人以上増えることになる。もちろんワンマンではないし、今回はほぼ前座という型で声を掛けてもらっているのでノルマは均等という話では無かったが、それでも何の努力もしないというわけにはいかない。
「まぁそこは各々頑張るとして、ちょっと早いけど先にセトリ決めとく?。今回カバーは?」
「まだ決めてない。初めてのハコだし、無しでもいいし、今までに演ったやつか、新しくやるなら次の練習までには連絡する」
曲決めと言ってもまだオリジナル曲もそんなにたくさんあるわけではない。ライブでいつも盛り上がる曲を中心にだいたいのセトリを決めた。
「新曲は?」
「うん、がんばってるけどちょっと煮詰まっててあんま進んでない…」
「例の彼女は?」
「うん昨日…」
言いかけてやめた。危ねぇ、あっさり引っかかるところだった。
「やった?」
「いや、飲みに行っただけだよ」
「んなわけねーだろ、今朝遅刻して来た奴が」
「関係ねーし」
…本当は大アリだけど。
「だからあの人彼氏いるんだって、そういうんじゃないの。貴重な音楽の趣味の合う友達だよ。…それに、昨日聞いたけど、結婚するんだと」
自分で言った事実に地味に傷付く。
「あーそう、そら残念」
「じゃ長田くんの一人負けね。ここの奢り。ごちそーさま」
「マジかよクソ、このヘタレ野郎が」
酷い言い草でしかも賭けてたのかよ最低だなコイツら。
こんな最低な奴らだけど、メンバーのことはこれでも信頼している。けど、彼女とのことは、今はまだ言えない。昨日の今日で正直自分でもどうしたいのか良くわからない。
ただ、これで終わりには出来ない、絶対に…。
あの日から数日、たった数日会えないだけでどうにかなりそうだった。
彼女の方から連絡が来ることは無かったがオレがメールを送ると必ず返信はもらえた。だけど、何となく次の約束を取り付けられないでいた。
ふとわざと忘れて行った折り畳み傘を思い出す。彼女の部屋にぽつんと置かれたままの折り畳み傘を想像するだけで今すぐあの部屋に戻りたくなる。
大学で講義を受けてからのバイトで疲れきった帰り道、午後11時20分、彼女は今日もあの部屋で一人、レコードをかけて大好きなお酒を飲んでいるのだろうか。それともオレの知らない誰かと一緒なのか…。
友達は少ないと言っていたが誘われればフラッと一人でライブハウスに行けるくらいにはフットワークは軽い。
たいてい一人でいるから客や出演者の男から声をかけられることも少なくはないらしい。この前のライブでもオレが歌っている最中にナンパされているのがステージから丸見えで大いに集中力を削がれた。
そんな事を思い出しているともうどうしようもなく会いたくて、せめて声だけでも聞きたくて、夜道をひとり歩きながら気付くと彼女に電話をかけてしまっていた。
『はい』
何度目かのコールの後、彼女は電話に出てくれた。
「あ、もしもし…、あのぉ…」
自分からかけた電話なのに正直出てくれる気がしていなくてしどろもどろになってしまう。
『なに?』
「あ、うん、えっと、…元気?」
『え?うん、まぁ…元気、かな』
何言ってんだオレ、ちょっと引かれてるじゃん、そうじゃなくて、
「今、家?」
『うん』
「あのさ、オレこの前傘忘れてるよね?」
『あー、うん、忘れてる』
「…今から、取りに行っちゃダメ?」
『今から…』
今からなら12時前には彼女のマンションに着けるが、明日も仕事だろうしさすがに迷惑か。
「あー、やっぱ無理だよね、ごめん」
断られるより自分から引き下がった方が幾分ダメージが半減する。
『いいよ』
…マジで?いいの?
「なるべく急いで行くから!」
通話を一方的に切りオレは最寄りの駅まで走った。
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