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自分の世界に閉じこもらないこと|村上春樹「ダンス・ダンス・ダンス」

深く落ち込んだときに、村上春樹さんの小説を読みます。
喪失感を抱いた主人公が、それを乗り越えようとしているからです。

「ダンス・ダンス・ダンス」は、大切な人を立て続けに失い、
失意の底から4年かけて社会復帰(=「出発点に戻りついた」)をし、
「新しいサイクル」を始めようとします。

そのためには、悲しき思い出の地「いるかホテル」に戻る必要がありました。夢に何度も登場してきたからです。
そして変わり果てた「いるかホテル」との再会を機に、彼の運命が大きく動いていきます。

※結末のネタバレはしていませんが、途中のエピソードについては、引用しながら書いているので、未読の方はご注意ください。


主人公と自分には共通点がありました。
友人など自分と関わった人は皆、悲しい顔をして去っていってしまう。
その過程も、主人公が出した結論も同じでした。

私なりに努力をしたつもりだった。でも、いつも足りない。
人として当たり前にできることができないばかりに、相手を傷つけてしまう。がっかりさせてしまう。

彼らは僕のところにやってきて、僕と関わり、そしてある日去っていく。(※中略)彼らはあきらめ、あるいは絶望し、あるいは沈黙し(蛇口をひねってももう何も出てこない)、そして去っていく。

彼らは僕に対して何かを言おうとしたり、心を開こうとしたりした。彼らのほとんどは優しい人々だった。でも僕は彼らに何かを与えることはできなかった。もし与えられることができたとしても、それだけでは足りなかった。

そして彼らは去っていった。それはもちろん辛いことだった。でももっと辛いのは、彼らが入ってきた時よりずっと哀し気に部屋を出ていくことだった。(中略)変な話だけれど、僕より彼らのほうがより多く磨り減っているように見えた。

以上、文庫上巻・P27~28より引用

主人公は、この繰り返しに「慣れつつある」ことを悲しんでいる。
私と全く同じでした。
だからこそ、彼がたどり着く場所に、大きな興味を抱きました。


自分と似ていると思った人物は、もう2人登場します。
主人公と行動する13歳の少女・ユキと、かつての同級生・五反田です。


ユキは両親から「親の愛情」を受けて育っていません。
母親は「ユキと友達になりたい(母娘の関係ではなく)」と思っており、
離婚した父親はなんでもお金・権力で解決しようとします。
そしてどちらにも、深い関係のパートナーがいる。

私の母は、私のことを娘ではなく、基本的には姉妹だと思っています。
離婚後に育児を放棄し、多感な学生時代を育ててくれたのは祖父母でした。
たまに家に帰ってきては、きまぐれのように母親顔をしたし、
恋人に会う日は女の顔になるのが心底嫌でした。

祖父母は、孫の育て方がわかりませんでした。実の子供のように厳しくするわけにはいかないが、甘やかしすぎるのもよくない。
誕生日プレゼントはいつも現金でした。これで好きなものを買いなさいと。
私が欲しいのは大きな愛情でした。

そのため、主人公がユキの母に怒りをぶつける場面を読みながら、勝手に少し救われたのでした。そしてユキを心底愛おしく思いました。

「あなたは彼女にとって友達である前にまず母親なんです。(※中略)
そして彼女はまだ十三なんです。そしてまだ母親というものを必要としている。暗くて辛い夜に無条件で抱き締めてくれるような存在を必要としているんです。
ねえいいですか、僕はまったくの他人だからこんなことをいうのは見当違いかもしれない。でもね、彼女に必要なのは中途半端な友達じゃなくて、まず自分を全的に受け入れてくれる世界なんです。まずそこをはっきりさせなくちゃならない」

文庫下巻・P99~100より引用

それに対する母親の言い分も、わからなくはないのですが、その関係は親子で築くものではない。


五反田は人気俳優ですが、事務所に多額の借金があり、それを返すだけの人生を送っていました。
愛している人と離婚せざるをえなかったが、隠れて2人で会うことに幸せを感じています。また、楽しんで演じたものほどファンから非難が飛び、いつも似たような役を演じています。

「でも駄目だ。僕が真剣にそれを選びとろうとすると、それは逃げていくんだ。女にしても、役にしても。向こうから来るものなら、僕は最高に上手くこなせる。でも自分から求めると、みんな僕の手の指の間からするっと逃げていくんだ」

文庫上巻・P303より引用

私が「相手に合わせる」人生を選んだのは、求めたものが手に入らない経験を繰り返したからです。
時にワガママと評され、避けられ、拒絶されたからです。
自分を殺せば誰かと繋がっていられる。
そうして自分をどんどんすり減らしていっていく。間違った人生。


私は、ユキに感情移入することで主人公に救われ、五反田のような人生を続けてはいけないと鼓舞し、主人公と「新しいサイクル」を目指しました。


主人公は、いるかホテルのようで、いるかホテルではない真っ暗な場所で「羊男」と再会します。

※実は「ダンス・ダンス・ダンス」は、デビュー作から続くシリーズ物の最終巻で、羊男は前作「羊をめぐる冒険」に登場するのですが、過去作を読んでいなくても大丈夫です。むしろ前作の時点では謎のままだった気がする。

そして羊男は、この失い続ける人生は、たとえ何回やりなおしても繰り返すだろうと告げます。八方ふさがり。
「どうしたら…」と嘆く主人公に、羊男は「踊るんだよ」と告げます。

「あんたはたしかに疲れている。疲れて、脅えている。誰にでもそういう時がある。何もかもが間違っているように感じられるんだ。だから足が止まってしまう」「でも踊るしかないんだよ」

文庫上巻・P183より引用

「踊る」というのは文字通りダンスを踊れということではなく、立ち止まらないこと=行動し続けることと私は解釈しています。ちなみに「ハワイでのんびり過ごす」ことも「踊る」に該当し、「何かが動き始めるのをじっと待つ」ことも該当しています。

「もしそれが必要であるものなら、それは必ず動く」

羊男は、踊らないと「こっちの世界でしか生きられなくなってしまう」と警告します。こっちの世界というのは、羊男のいる真っ暗な世界。主人公が夢で何度も見た「いるかホテル」を指します。しかしここがどういう場所なのかは羊男にも説明ができない。しかしここで生きることは許されていない。


私は「自分の世界」なのではないかと考えています。
自分のためだけに存在する世界。争いも別れもない。ただ自分だけがいる。
会いたい人に会える。でもその人は実物ではなく、空想の相手。
現実逃避する場所のようなもの。

ここに永遠に留まってはいけないという主人公の本能が、長時間いられないほどの寒い空間にしているのではないかと思いました。

だとするなら、羊男は空想上の人物になってしまいますが、「なんとかしてみる」と意思を持っているので、主人公を現実世界にとどまらせる(地に足の着いた生活が送れる状態にする)役割なのかなと。

それはおそらく突然目の前に現れて不思議な部屋へ誘ったキキ(前作で行動をともにし、行方不明になった不思議な女性)も。


主人公が好意を抱く、ユミヨシさんという女性が登場します。
彼女は「現実」の象徴で、彼女がいなければ主人公は現実に留まれず、ふわふわした世界に翻弄されて生きることになる。
(ちなみに、西尾維新さんの物語シリーズのヒロイン、戦場ヶ原ひたぎも「現実」の象徴だと思っています)

やっぱり「人」なんだなと、読みおあわったあとに思いました。
人は1人で生きていけないし、人とのつながりがあるから、生きることを楽しめる。だから、人と関わっていくことをあきらめてはいけない。
と言われたような気がしました。

そのメッセージは「騎士団長殺し」にもあったし(そのうちnoteに書きます)、困ったとき人に頼ったり、誰かに何かを貰うみたいな話は散見されるので、村上春樹さんの大きなテーマのひとつなのかもしれないし、私が勝手にそう解釈しているだけかもしれません。

村上春樹さんは、人里はなれたところで小説を書くなど、社会から孤立しているように見えるひとですが、エッセイを読むに、やはり当たり前のように人と関わっているからです。

私がこのnoteを始めたのも、人との交流をもう一度頑張ろうと思えたからなのかもしれません。

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