【書評】心に効く目薬 - 『Kの昇天』(梶井基次郎)
心の底から湧き上がっている感情は、言葉に出来ないのかもしれない。そう思ったことが何度もあります。
例えば、好きな人に想いを伝えるとき。その人の好きな部分は幾つでもあるはずなのに、いざ言葉にしようとすると口が縫い付けられたように開かなくなってしまう。どの引き出しを開けても、道具箱をひっくり返しても、思いにジャストフィットする単語がどうも見当たらない。相手は「え、好きなとこないの?ボコすよ?」という瞳を向けてくるので、焦ってしまってさらに言葉が出てこなくなる……。
上記は一例ですが、このほかにも「よくわからんけど、なんか良い」と感じることってありますよね。太宰治もこう言っている。
僕にとって、梶井基次郎の描く作品は、まさに「言葉にできない良さ」に満ち満ちた芸術です。『檸檬』で有名な作家さんですね。
そんな梶井の中でも『Kの昇天』がお気に入り。彼特有の、感性の襟を掴んで恫喝するように揺さぶってくるような美しい文体と世界を味わえます。
本作は、「私」が療養先のN海岸で交流した「K君」に関する不思議なエピソードを手紙形式にまとめた短編小説です。K君は先日この海岸で溺死しており、私は生前の彼との思い出を振り返ります。
満月の夜、私が砂浜でタバコを吸っていると、見たことのない青年が近くにやってきて、その場で前に行ったり後ろに戻ったり足元を観察したりしている。何をやっているのか? 私は「落とし物でも落としたのかな」と推測し、こちらに背中を向けている彼にマッチを貸そうと近づくと……
海辺。砂浜。満月。さざなみ。異世界チックで幻想的な風景が、上記の文章によって一気におっかない雰囲気に一転します。映像作品だったらBGMが変わるところですね。短文で空気をガラッと入れ替える。並の物書きにはできない高度な芸当です。
ひどく印象的なのは、私に呼びかけられて青年が振り返るシーンの描写です。
月の光によって、徐々に見える顔の範囲が広がっていく様子が、極めてシンプルに、かつトリッキーな短文で描かれています。「月光が鼻を滑る」だと?何を食って育ったらこんな表現をアウトプットできるのでしょう。
このシーンから結末までも極めて観念的といいますか、現実味の欠けた不思議な世界観の物語になっています。読み終えて本を置き、顔を上げた瞬間、「あ、良かった」と胸を撫で下ろしました。現実に、戻ってこれた。危ない世界から帰ってこれなくなるところだった。梶井の作品は描写が恐ろしく精緻なので、没頭を飛び越えて非現実世界に入り込んでしまうような感覚があります。
梶井基次郎の「神秘性」は世界観だけでなく、文章そのものにも宿っています。だからテーマがなんであれ、神秘的な世界になる。たぶん「キャバクラ行ったら妹が接客してきてクソほど気まずかった上にその後父親が来店してきて空気オワタンゴ」みたいな内容でも、彼が書いたらノスタルジックになってしまうでしょう。
神秘性が強いゆえに、「何が言いたいのかよくわからなかった」と言われることも多いです。僕も正直ピンとこないことが多いですが、それでも読後感はとても良い。「よくわかんなかったけど、素敵な物語を読めたな」と思えます。
知性より感性に刺さってくるので、「なんかモヤモヤする」「謎の不安で寝付けない」みたいな夜に読むと、心の波が自然に鎮まります。心に効能のある目薬。それが梶井の文学です。
(「Kの昇天」収録作品はこちら↓)
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?