魔法野菜キャビッチ3・キャビッチと伝説の魔女 6

 その夜ベッドに入ってから、ふと“あの声”を思い出した。

「ユエホワって誰?」

 あの、小さな、幻のような、声。

 細くて、透き通った声だった……女の子の声なのかな?

 鬼魔、だったんだろうか。

 鬼魔……何類だろう……あんなに、控えめで、はかなげで、小さくて可愛い鬼魔なんて、いるのかな……

 と、そこまで考えたあと、私はすっかり眠り込んだ。

          ◇◆◇

 鬼魔なら、ユエホワの事知ってるんじゃないの?

 次の日の朝、目が覚めると同時に私はそう思った。

 明るい朝の日差しが窓から差し込んでくる部屋で、ベッドの上に座って、まだ半分しか開かない目で、私はその日の最初に、鬼魔のことについて考えた。

 そういう意味では、最悪の日だ。

 階段を下りて行くと、母がいそいそと朝食を作っていた。

 いつもの光景だけれど、今日はやっぱりというか、いつもより楽しそうで嬉しそうだ。

「おはよ、ポピー」私がダイニングに入って行くと、母は振り向いてにっこりと笑った。「今日は久しぶりに三人で朝ごはん食べられるわね」

「うん!」もちろん私もにっこりと笑って、お皿やグラスを棚から出して並べる手伝いをした。「パパはまだ寝てるの?」

「あら、さっき裏口の方から外に出て行ってたけど。裏庭にいるんじゃない?」母は裏口の方を覗いたけれど、すぐに手許のフライパンの中のベーコンエッグに戻らなければならなかった。「呼んで来てくれる?」

「はーい」私は皿をテーブルに置いて、裏口に回った。

「ぼく、君みたいな息子が欲しかったんだよなあ」

 木のドアを開けた途端、そんな声が聞えてきた。

 父の声だ。

「──は?」

 それに続いて、そう答える声――それは――

 ユエホワ?

 私の眉毛は無意識のうちに、ぎゅっとしかめられた。

「一緒に、研究旅行に行ってくれるような、さ」父がまた言う。

「じょっ」ユエホワが答えようとして、声を詰まらせる。

「ねえ」父が笑いながら言う。

「冗談いうな!」ユエホワは、声を押し殺しながらだけれど、叫んだ。

 私は無意識のうちに、足音を忍ばせて声のする方へ数歩進んだ。

 それは裏口から出て数メートルほど離れた所に生えている、とっても香りの好いミイノモイオレンジの木の陰から聞えてきていた。

「あ、でも今のはポピーには内緒ね」父の背中が、ミイノモイオレンジの木の向こう側に半分見えた。「息子が欲しかった、なんてあの子が聞いたら、傷ついちゃうから」

「てか、むしろポピーを連れてきゃいいじゃんかよ」ユエホワの姿は見えないけれど、たぶん父のいる所の向こう側に立っているか、それとも葉っぱに隠れながら木の枝の上に立っているかだろう。「その研究旅行とやらに」

「何いってんの、ダメだよ」父は私に背を向けたまま首を振った。

「なんでだよ」ユエホワの声は少し怒ったように言った。「あいつなら怖いもん知らずだし、なんかそういうの行きたがりそうじゃんか」

「怖いもの知らずだからなおさらだよ」そう言われて父は笑った。「あの子を危険な目に合わせるわけには断じていかない」

「――俺ならいいのかよ」ユエホワは、拗ねたようにぼそぼそと言う。

「だって君は、ムートゥー類だろ」

「え」

「聡明さと洞察力と機敏さにおいて、他に類を見ない、素晴らしく有能な鬼魔だからさ」

「――よく知ってるじゃん」

「そりゃそうさ」

「ま、そこまでいうなら、たまーにだったら手伝ってやらんこともないかもだな」

「おおー、さすが! 助かるよお、ありがとうユエホワ君!」

 私はそこまで聞いたあと、二人に気づかれないようにそうっとため息をついた。

 ため息をつきながら、パパすごいな、と思った。

 それにひきかえユエホワは、まただまくらかされて。

 ばかだな。

「あ」

 その時ユエホワの声が、驚いたようにそう言った。

 私に気づいたのだ。

 ざざっ

 葉っぱが大きく揺れる音がして、ミイノモイオレンジの木の上にユエホワが翼を広げて飛び上がって行くのが見えた。

 その姿は、あっという間に空の彼方に小さく見えなくなった。

「おはよーう、ポピー」父はわざとらしいぐらい顔中でにこにこ笑って振り向き、腕を大きく広げて私をぎゅうっと抱き締めた。

「おはよう、パパ」私は抱き締め返しながら、泥はついてないよね……と心の中でだけ確かめた。「ユエホワと、何話してたの?」

「ん、ああ」父は私を解放してから、ユエホワの飛び去って行った方の空を見上げた。「今朝起きたら、なんか窓の外からこっそりのぞき込んできてね。マハドゥをもう一回見たいっていうから」

「見せたの?」私は目を丸くした。

「うん」父はにこにこと頷いた。

「ずるーい!」私は唇を尖らせた。「あたしも見たかった! 起こしてくれればよかったのにー」

「しい」父は片目をつむって唇に指を当てた。「だってママが、あれだろ」

「あ」私は口を手で押さえた。「……そか」

「そう」父は肩をすくめるようにしてまた頷いた。「朝から皆でわいわいと魔法ショーなんてやってたら、当然ママも見に来るだろ」

「――そうだね」

 まあ私はいつだって、父の魔法をすぐに見せてもらえるんだから、いいか。

 そう思い直して、私は父と一緒に家の中に入り、久しぶりの三人朝ごはんを楽しんだ。

「行ってきまーす」私は、玄関の外で並んで手を振る父と母に向かって元気よく言ってから、ツィックル箒で空高く飛び上がった。

 母の手入れ受けたての箒はとっても調子がよく、いつもよりも私の呪文に素早く反応してくれるような気がした。

 ちなみに箒の手入れというのはおもに、キャビッチの葉にミイノモイオレンジの皮の油を染みこませて、呪文をかけて、柄のところをていねいに拭くという作業だ。

 油分の量とか、拭き方とか、そしてもちろんそれをやる人の魔力の強さによって、箒の状態がどれだけよくなるのか、大きく差が出る。

 私は箒の手入れを週に一度くらいでやっているんだけれど、ひと月かふた月に一度、手伝いをしたごほうびに、母の名人級の手入れをしてもらえる。

 その翌日――つまり今日だ――は、いつもより家を出る時刻を十五分から二十分ぐらい遅くしても、余裕で学校の始業時間に間に合う。

 それだけで、どれだけ効果のちがいがあるかってのが、わかるでしょ?

「おす」

 調子よくかっとばす私の箒の後ろから、声をかけてくる者がいた。

 振り向かなくても、ユエホワだとすぐにわかった。

「おはよう」私はとくににこりともせず、答えた。「マハドゥはどうだった?」

「うん」ユエホワは私のツィックル箒の横にならんで、うなずいた。「なに、今日なんか急いでる?」顔をこっちに向けて訊く。

「へ? ううん、べつに」私は眉をもち上げて首を振った。「ふつうだよ。なんで?」

「なんか、いつもよりスピード速いなって」ユエホワは前を向きながらそう言った。

「ああ」私はうなずいた。「そうでしょ。これ昨日、ママが磨いてくれたの。だから速いのよ」顎をもち上げて横を飛ぶ緑髪鬼魔に自慢する。

「へー」ユエホワは少しだけ感心したような声を挙げた。「やっぱ、すげえよな……お前んとこの親」


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