見出し画像

豊かな言葉にすくわれる

言葉が豊かな人って、いいなぁと思う。私が言う「言葉が豊か」というのは、正しい言葉使いだとか、美しい言葉選びだとか、読みやすい聞きやすい文だとかは関係ない。

その人が最もその人らしく、自分らしく言葉を扱っているのを、「言葉が豊かだなぁ」と感じる。着飾っていても、着飾っていなくても、嘘でも、素でも、その人らしさが全面にあると惹かれてしまう。

だから、ブログやnoteを読む。豊かな言葉にたくさん出会えるから。今はサボってるけど読書もする。

最近、ラジオを聞いたり、YouTubeやバラエティを見たり、誰かの言葉を聞くこともする。言葉として、文章とか“読む”言葉ばかり摂取していたけど、ラジオとかYouTubeとか“聞く”言葉”もすごく魅力的だなと気づいた。

“聞く”としては、昔から好きなドラマや映画も、“聞く”豊かな言葉だったのかなと今さら思う。

豊かな言葉に出会うと、あるいは言葉が豊かな人を知ると、「うわ、いいなぁ…」と言葉にならない感情になる。私の言葉がまだまだ豊かでないのは、この気持ちを言葉にできないことから、わかる。


私はライターという言葉を扱う仕事をしている。学歴も職歴も何もない私は、書くことが好きで、人の縁と運の良さもあって、ありがたいことに言葉を扱う仕事を続けられている。

昔から言葉を思い浮かべるのは好きだった。物語を考えていることもあった。中学生のとき、「このシーンから物語を考えてみましょう」という国語の課題があって、枠内に収まりきらず大学ノート5ページ分くらい書き足した。少し前に部屋の片付けをしていたら出てきて、黒歴史を発見したような苦々しさと恥ずかしさと当時の国語の先生への申し訳なさでいっぱいになって、シュレッダーにかけて成仏した。思い出したら除霊しなきゃいけなくなるから、思い出さない。それくらい、言葉が思い浮かぶと止まらなかった。

とはいえ、私自身が言葉が豊かと言われると、さっきも書いた通り全然豊かじゃないなと思っていて。仕事で文章を書いていても、「言いたいことはわかるけど、全然簡潔じゃない!むちゃくちゃ陳腐!あーなんでこんなつまらない文章しか書けないんだ!」と言葉の貧しさに向き合うことがめちゃある。

だから、言葉が豊かな文章を見ると、言葉が豊かな話を聞くと、純粋に受け手として楽しんでしまう気持ちと、尊敬する気持ちと、悔しさが沸き起こる。

ああ、悔しい。私もこんな文章が書けるようになりたい。それはその人みたいな文章ってことじゃなくて、言葉が豊かな文章という意味で。

ふつふつと湧き上がってくる悔しさは、決して不快じゃない。むしろ、「もっと!もっとやれるかはわからないけど、もっとやらないと!」という燃え上がるものが、心に満ちていく感覚がある。


仕事でもnoteでもブログでもSNSでもない、書くことのない日常の中でも、延々と言葉を通して考えている。あふれる言葉の中に埋もれてしまいそうになって、日常生活に戻ってくるのか大変なときもある。だからお風呂の中で考えてのぼせることがよくある。

最近も「どうしたら良かったんだろう」と思いながら、答えがないことをずっと考え続けている。解決する方法としてなのか、その人なりの答えなのか、突き刺さるような短い言葉を投げかける人もいて、違うんじゃないかと思いながら、私にそんなことを言う権利はないし、「違う」と言うことでまた誰かを傷つけると思ったら言葉にできない。自分の中の言葉だけが形にならずに積まれていく。ものすごく、もやもやとする。

そんな中でも、同じことを考えながら、自分なりの言葉を伝えてくれる人がいた。自分にあるもやもやの絡まりをほどいてくれたり、自分にはない考え方や見方で「どうしたら良かったんだろう」の答えのピースを埋めてくれたり、とにかく私の心を軽くしてくれた。

私の中にあった思いを言葉にしてくれたり、私の中になかった思いを言葉にしてくれたりするおかげで、ぽとんぽとんと確実に心の中に満たされていくものを感じた。


誰かが発した短い言葉の中には、文章にするとものすごく長い思いがあるのだということも、最近ようやく気づいた。自分が全てをきちんと伝えなければと思って、あらゆる言葉を取りこぼさないように書いていたら、とんでもない文章になったから。それでも限られた言葉でしか、自分の正確な思いを伝えられない。

誰かを理解するためにも、自分を理解するためにも、豊かな言葉が欲しい。どんなに素晴らしい言葉でも、どんなに豊かな言葉でも、言葉で全てを表現できることなんてない。そのせいで傷つけたり傷が深くなったり、ある言葉のせいで全ての言葉が届かなくなってしまうこともある。

ただ、私たちは忘れる。言葉が万全でも完璧でもないことを。私たちは勘違いする。自分が思っている通りに言葉が伝わっていると。相手が思っている通りに言葉を受け取っていると。きっと、本当は、言葉は永遠に足りないのに。

でも、言葉が豊かなら、自分の思いがよりわかりやすく届くかもしれない。相手の思いにもっと寄り添えるかもしれない。楽しむことも、悲しむことも、怒ることも、もっと豊かになる。笑いも生むし、癒やしにもなる。


私は言葉を通して、今まで仕事を続けられてきた。本当にありがたいことだなと思う。社会で何者でもなかったところから、ひょいっとすくい上げられたような、言葉にそんな力を感じている。そして、今でも言葉に傷つき、言葉に喜び、言葉に救われている。

掬われて、救われた。私の言葉で誰かを掬えたらとか、救えたらとか、そんなたいそうなことはできない。ただ私の言葉が豊かになれば、私が生きやすくなって、私ではない誰かの生きやすさも考えられるんじゃないか、言葉にすることに近づけるのではないか、と思う。

これからも私は豊かな言葉にすくわれる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?