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戯れは生きる術にもなる

妹というのは、姉や兄がすることなすこと、全部自分でやってみたくなる。私も末っ子なもので、そういう性分だった。きょうだいがやっていることは、自分でもすぐにやってみたくなった。

パソコンもその一つだった。親が仕事で使っていたパソコンをきょうだいが譲り受けて使っており、私も「いいな」と思っていた。

親は新しもの好きで、Apple製のパソコンを使っていた。Appleという名前を知らなかった子どもの私は、かじりかけのりんごマークを見ていたせいか、そのパソコンが「りんごのようないい匂いがする」と思っていた。とはいってもApple信者なわけではなく、割とすぐにマイクロソフトに切り替えていた。

小学校に上がる前に、ワープロには触れていた。これもまた親が仕事道具で使っていたもので、神経衰弱のようなゲームで遊ばせてもらうことがあったのだった。当時の私はワープロとパソコンの違いもわかってはいなかったが、ただ自分が使わせてもらえないという理由だけで「パソコンを使いたい」と思っていた。

そして、私が初めてパソコンに触れたのは、おそらく小学校低学年くらいの頃。理由は覚えていないが、「使いたい」とねだったのではないか。駄々をこねて言うことを聞いてくれるような親ではないから、良識のある理由があったのかもしれないが、私は知らない。

私が使うことを許可されたパソコンはWindows98。これもまた家族のお古だったため、当時からしても古かった。動作も恐ろしいほど遅かった。その後のVistaに感激したほど、重たかった。それでも、やっと自分(共有だったが)のパソコンが与えられて、うれしかった。

ただ、具体的な使い方なんて知らず、ペイントでお絵かきしたり、ワードで気に入っていた本を打ち込んだり、CD-Rを入れて百人一首のタイピング練習をしたり、まるっきり子どもの遊び道具だった。

ああ、そうだ、音がうるさかった。ぶおおおおおおおんとと熱波は、良い使い心地とは言えなかった。

インターネットはExplorer。最初に何を開いたか、何を検索してみたか、これもまた記憶にない。そもそも検索したのだろうか。今は毎日のように使っているYouTubeもなかったし、SNSもなかったし、ブログはまだ知らなかった。

フラッシュのアニメとか、動作が重くてかくかくとしたゲームとか、そんなものを見ていた。それでも幼い私にとっては知らない世界で、いけないものを見てしまったような、背徳感にも似た感情でドキドキとして楽しんでいた。

きっと、きょうだいに教えてもらったんじゃなかっただろうか。「面白いサイトがあるよ」と教えてくれて、そのサイトのゲームばかりしていた気がする。それ以外に何も知らなかったから。


それからインターネットで検索も覚えたし、小学校でパソコンの授業があるときに得意げな顔ができたし、脱出ゲームにハマったし、変なリンク先に飛ばされても動揺しなくなったし、初めて電子メール送ったときはちゃんと届いているかドキドキしたし、ブログを作ったし、モバゲーとかGREEとかmixiとか流行っていたけど乗り切れなかったし、ニコニコにハマってボカロを聞いたし、その流れでSNSのリアルでつながっている人はいないし…いろんな思い出にインターネットが付随している。

初めてパソコンに触れて、インターネットにアクセスしたときは、とても特別なことのような気がしていた。だけど、今は当たり前のことで、インターネットは手段でしかなくて、誰もがつなげられるものになって、ライフラインの一つとなっているのはとても感慨深い。


どうしようもなく心が鬱々としているときにも、インターネットにさまようことが多かった。私は高校と予備校と専門学校を不登校になり、中退している。そのたびに「自分はなんてダメなんだ」「何も続かない」「どうしようもない」と思い悩んでいた。

社会に居場所なんてないと思ってて、どこにも所属できない孤独感から、インターネットを頼ったのかも知れない。

ただ無心に動画を見たり、ゲームをしたり、知らない人と言葉を交わしたり、ただただ時間が過ぎていった。

私は人生の“答え”が欲しかった。中卒で、学校を3つも辞めて、これからどうやって生きていけば良いのか、どうしたら生きていても良いのか、知りたかった。

今、インターネットは無数に情報がある。一つのワードを検索すれば、いろんな検索結果は出てくるけど、それは誰かのそれっぽい言葉でしかなくて、人生の“答え”はない。だから、インターネットをしていて、はっきりと「答えが見つかった」と思ったことはない。ただ、“ヒント”はたくさんある。

落ち込んでいるときにそのときに勇気づけられた言葉や音楽、物語、人と出会うこともできた。つい最近も心優しい人が心配までしてくれた。


そして、今私はインターネットがなければ生きていけない。それは仕事をオンライン上でおこなっているから。中卒で、無職で、それでも仕事があったのはインターネットがあったから、というのは過言ではないと思う。

私は遠距離恋愛をしているので、インターネットという通信手段がないと、連絡を取り合うこともできない。物理的に遠くても、心理的な距離が遠ざからないのは、コミュニケーションとなるツールがたくさんあるからだ。

ほかにも動画を見たり、サイトを見たり、誰かの文章を読んだり、誰かとつながったり、これもまたインターネットのおかげだ。北海道が地震に遭い、ブラックアウトで全域が停電になったときも、心配する人がかけてくれた声を知れたのも、インターネットがあったから。


これは私に限った話ではなく、インターネットは多くの人にとって居場所となっている。昔は少数派で、少数派だとさえ口にできないようなことも、インターネットで堂々と発信して、自分にとっての心の拠り所を見つけられた人もいるだろう。

もちろん社会と同じように、インターネットにも悪意を持って利用してくる人間もいる。身を委ねすぎず、仮想現実ではなく現実としっかりつながっている場だという意識も忘れずにいたいところだ。


私がインターネットを使い始めた頃は、おそらくまだまだ発展途上の段階だった。もし、あのときパソコンに触れる機会がなかったら。インターネットを知らなかったら。小学生でブラインドタッチができるほど打ち込んでいなかったら(ちょっと自慢)。今の自分はないだろう。

もっと前の時代ならパソコンが普及しておらず、もっと後の時代ならスマホが主流で家庭にパソコンがないことも多かった。だから、偶然だけど運命的に、今につながっているとも考えられる。

当時は戯れだったことが、今の私の生きる術となっている。それは今あることと同じなのかもしれない。今戯れだと思っていることも、後々自分の生きる術となるかもしれないのだ。


何か人生で立ちふさがっていても、目の前にはインターネットがある。今の身の回りには居場所がなくても、インターネットで居場所が見つかるかもしれない。苦しんでいる人にとっては逃げる場所に、何か始めたいと思っている人は挑戦できる場所に、良いようにも悪いようにも可能性を秘めている。

もし、私と同じように人生に悩んでいて、インターネットを開く人もいると思う。ただ、答えが見つけるのは難しい。でも、ヒントはあるかもしれない。

得たヒントを自分なりに解釈して、それを携えて、自分自身の人生を前に進めていけば、生きていくことはできる。インターネットにはいろんな悪意もあるけれど、多くの人にとって可能性を広げられる場所であってほしいと願いたい。


#はじめてのインターネット

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