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No.525 恥部

仕事がない日はとことんだらだらする、フリーライターのaoikaraです。

今日も休みの日で、やろうと思っていたことはあったけれど、だらだらと過ごしてしまった。

今日書いたことは私にとっての恥部で、書き終えて、読み直して自分でも「疲れるな、この文章」と思ってしまうほどで、一度公開するのはやめておこうかと考えた。

それで別のnoteを書いていたのだけれど、今度は思いを封印してしまうことへのもやもやが出てきてしまった。

だって、あっけらかんと楽しくすることもできるけど、もやもやとした自分の感情に嘘はつけないし、もやもやをやり過ごせればいいけど、解決できないもやもやになったときずっとつきまとうって最近気づいたから。

この文章は自己満足なんだけど、「書いていたけどやめました」なんて書くのは、さらに自己満足の極みで、「何書いていたか気になる!」状態にさせて、自分だけ知ってるなんて悪趣味だなと感じて。

だからこそ、そんなこと書かずに別のこと書けばいいとも思いながらも、そこまでの器用さを今日は持ち合わせていないので、今日の正直な思いとして書きました。という長い前置きと保険と言い訳です。


緊急事態で思うようにいかない日々が始まったとき、戸惑いとストレスで調子を崩しかけたけれど、ありがたいことに仕事があったし大切な人もいてくれたから、最近はなんとかペースを戻しかけていた。

仕事があるのはありがたい。社会に自分の居場所があると思わせてくれるから。だけど、最近ふつふつと考えていたことが、仕事をしない自由な状況で一気にあふれ出して、何も手につかないようになってしまった。考えすぎて、しんどくなった。

ここ最近、ずっと“誹謗中傷”や“批判”について考えている。私も数はとても少ないけれど、された経験はある。知った瞬間は心臓がバクバクして、体中が震えるほど動揺する。時間が経った今は、チクリと胸は痛むけれど、「そんなこともあったな」程度に抑えられている。

今日までは、そうだった。なんとなく思い出してしまった。嫌な記憶というのは普段の幸せの中にいると忘れているけれど、何かきっかけに一気にあふれ出すときがある。たぶん、今日はそんなタイミングだった。


私は自分の感情が大きく動いたとき、そのことについて調べようとする。たとえば素晴らしい映画やドラマを見たときに、スタッフや演者について調べて、また新たな作品を探そうとする、みたいなのがポジティブな感情のとき。そういう人は他にもいるだろう。

ただ、ネガティブな感情のときにも同じことをする。とある人の行動や発言に激しい怒りを感じたとき、自分に対してとてもひどいことをされたとき。

「こんなことする人の気が知れない」「理解できない」と切り捨てるのは簡単だし、真反対の気持ちが思い浮かぶときは、おそらくお互いに「理解できない」のは間違いない。でも、私は気になってしまう。どうしてこんなことをしたのだろう、と。

だから、そのことについて、その人についてものすごく調べてしまう。私が調べられる限り、とことん調べる。どう生きてきたのか、どんな発言をしていたのか、どういうものが好きで、どういうものが嫌いなのか。「なぜこんなに私と違うのかを知りたい、理解したい」と思ってしまうのかもしれない。

結果、私とはいくつかヒントらしきものをたぐり寄せて、答えらしきものを導く。あくまで“私なりの”だけど。「共感はできないが、その人となりを知って“まったくわからない”が“こういう理由だったのかも”と少し理解はできる」くらいになる。

その人がまた何かで非難されているときに、なぜそんな行動を取ってしまったか、そんな発言をしてしまったか、一度調べた私は動機がわかるときもある。カテゴライズするという意味ではなくて、究極にその人らしい個人的な部分から、なんとなく理由が見えてくるときはある。


「理解できない」と思ってしまった相手に対して好奇心を高めることは、理解できないことに怒りをぶつけないように、あるいは私が傷ついたことから目をそらせようとする、いわば一種の現実逃避なのかもしれない。

そして、おそらく「理解できない」からこそ、相手がやってしまったことを、私なりに「私はあなたを理解しようとした、でもあなたはしない」というマウントを取って、心の中で優位に立とうとしているのかもしれない。

何にせよ、たぶん自分の心を守ろうとしていて、自分を正当化しようとしている。自分を肯定するためだから、オンラインの場で表明することはないかな。親しい人に話すことはたまにあるかもしれないけど、でも自分の内に閉じ込めて納得させていることが多いかな。


今日、心がやられていた過去のことは、誹謗中傷ではなく“批判”だった。ずいぶん前に、私に対して批判的に言っている人がいた。その人の言っていることは、何も間違っていなかった。

私はむしろ、その人に好感を持っていた。豊かな人だったから。私にはないものを持っていて、魅力的な人だったから。でも、その人は私を軽蔑していたみたいだった。わざわざ“行動”や“発言”で示してくれていた。私のことを、空虚で陳腐だとわかりやすく伝えてくれていた。

メンタルがよわよわの私は、誹謗中傷なんかじゃないきちんとした意見の“批判”でも、まるで自分の全てが否定されたみたいに傷ついた。

いつものように、その人のことを調べたら、やっぱり魅力的で豊かな人だった。豊かな人にとって、私は「価値がない」「見たくない」と判断された、ということに、たった一人の拒絶なのに、どこか社会からもぴんっとでこぴんをするときの指のように、つまはじきにされてしまったような感覚になった。

その人はときどき「こういう人が嫌い」とやんわりと、それでも嫌悪感や軽蔑という刃はむき出しにして、“行動”や“発言”で示しているときがあった。そのときのその人の刃が、私にも向けられたようだった。

その人の人生の哲学から考えると、たしかに私のような生き方はみっともないのだと思う。自分でも、みっともないとわかっている。こんな生き方しかできない。でも、社会的に居場所がない私は、誰かを傷つけようという意図を持たず、できる範囲で、できることをして、生きている。今も、昔も。

たくさんの人に支えられて、運の良さもあって、ようやくたどり着いた生き方と居場所だ。軽蔑されて、みっともないと思われて、嫌悪感を丸出しにされて、価値観を踏みにじられて…そしたら私は生きていく場所がなくなってしまう、と思ったからたぶん傷ついた。

その人は私の生き方までも否定したつもりはないと思う。ただ、「こういうやり方は嫌い」というだけ。でも、そのやり方は私そのものだったから、弱い私は必要以上に傷ついたのだと思う。

今日はそのことを思い出していた。昔のことだから、普段はそもそも思い出さないし、ときどき思い出してもチクリとするくらい。でも今日は、当時受けた傷の深さと同じくらい、痛んだ。

私は豊かではないし、完璧な人間ではないし、むしろいろんなことが足りてないと自覚してる。だから行動も発言も完璧ではないし、他人に何かを言える資格なんてないから、潔癖ではあって個人的に言葉を選んで発言をすることはあっても、他人に求めすぎないようにと思っている。

ただ、自覚しながら、自覚を忘れながらか、私も誰かを批判してきた。不祥事を起こした人だとか、不用意な発言をした人だとか。悪意はなかった。でも、軽蔑と嫌悪感はあっただろう。私だって、誰かに刃を向けたことは幾度となくあった。なるべく柔らかい言葉を選んだとしても、刃は刃だという自覚がなかったんじゃないか、と思っている。

だから、自分も同じことをしてしまっていたのに、自分が刃を向けられたことだけに傷つくのは、ひどく卑怯だと思ってやるせなくて思い出したのだと思う。今一度、言葉を放つ重みをきちんと感じたい。


同時に、私を批判したその人のことを考えた。私からすると満ち足りていて、豊かであるはずなのに、どうしてその人は私のことなど批判したのだろうと思った。

昨日のnoteでも書いたけど、「何も言わず去る」という選択肢もあったはずだ。私にもやもやを残しながらも、明らかに刃を向けるよりはその人にとってストレスもない。

その人が、私にわかる形で“行動”し、“発言”せざるを得なかった。本当に軽蔑して、みっともないと思っていて、どうでもいいと思っていたら、わざわざ言うだろうか。

どうでも良くなかった、その人の琴線に触れてしまった、“行動”し“発言”せざるを得なかった。そうだとしたら、私は豊かだと感じているその人の心を刺激する影響力があったんじゃなかろうか。

そして、その人は“書いて”私を非難した。“書く”仕事をしている私にとって、誰かに何かを「書かなければ」と思わせるほどの影響力を与えていたのだとしたら、その人にとって本当に私は空虚で陳腐な存在だったのだろうか。

当時、私の心は穏やかではなかったけれど、きっとその人も穏やかではなかったのだろうと思う。わからないけれど、私は自分の心を守るために、そんな納得の仕方をした。

私は、その人から受けた刃の傷と共に生きていく。私も、誰かに向けた刃の傷があると理解して生きていく。私は、誰の居場所も奪わない生き方をしたい。ただそれだけ。


2020年5月27日(水)

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