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No.521 人を傷つけていい理由なんかない

ついさっき、衝撃で心臓がドッとなった。驚きと悲しみだけでこんなに体が震えて心臓がバクバクするのか。頭が働かない。

理由はわからない。見えているものと、見えていないものと、あるんだろう。見えているだけでも、しんどい。

こういうことは前もあった。いや、過去形じゃない。今もある。有名だからとか関係ない。毎日毎日、間違ったことをした人は、誰だってすぐにターゲットにされている。

たとえその人が間違ったことをしていても、誰だってその人を傷つけていい理由は一つもない。「正しい」「間違ってる」の基準だって多くは価値観で、人それぞれで、どちらの意見が多いか少ないかだけの話だ。

間違った人を攻撃することを“間違った正義感”とか“ゆがんだ正義感”とかいうけど、そもそも正義感でもなんでもない。ただ腹が立ったから、不快だから、自分の感情をぶつけてもいい相手だと見下して、吐き出しているだけだ。


言葉は救いになる。誰かが言ってくれた何気ない言葉が自分にとって救いになって、心の中に取っておいて、つらいとき悲しいときに心の中から言葉を取り出して励みにして、乗り越えることもできる。

でも、その何倍も何十倍も何百倍も、言葉は呪いになる。誰かが言ってきた何気ない言葉が自分にとって呪いになって、心の中から取り出したくても取り出せなくて、幸せなのにひょいっと顔をのぞかせて、いつまでたっても苦しめる。

強くて、呪いをはねのける人もいるけど、それが正しいわけじゃない。罵倒されたり攻撃されたりしたら、誰だって傷つく。たとえ一人にだって言われたら傷つく。多くのしかかれば、押しつぶされそうになる。

そんな言葉の呪いから逃げたくて、言葉が届かない場所へいってしまう人もいる。そうなったらもう取り返しがつかない。後悔したって遅い。それを何度も何度も見てきているじゃないか。

呪いの言葉があふれる中にも、そうじゃなく愛情ある言葉も紛れていて、その中には救いもあるけど、呪いの力は強いから届きにくくなってしまう。目に入っても、嘘なんじゃないかと疑ってしまう。そして、もう届かない。

そしてまた、“犯人捜し”が始まる。今度はその人に言葉の呪いがたくさん降りかかってくる。やってることが同じだ。また、言葉が届かないところに追い詰めてしまうの?


私は誰かを攻撃しない。傷つけたくないから。攻撃するのを見るのが嫌で、離れた場所にいる。でも呪いがあるのは知っていて、傍観者だった。それは“関係ない”わけじゃない。だって何も知らない人ではなくて、知っていて見ない振りをしていたから。でもそれってずるい。ずるくないか、私。

私は攻撃している人を説きたいわけじゃなくて、自分自身に思う。本当にこんなことがあってはいけないって。攻撃していなくても、眺めていた私だって当事者だ。闘うことはできなくても、何かできたんじゃないか、とは思ってしまう。

私ができるのは、今までと同じようにこれからも誰かを攻撃しないこと。たとえ自分が正しいとしても、相手が間違っていたとしても、傷つけていい理由はない。相手を傷つけようとした時点で、何にも正しくない。

一人でも気づけば、言葉が届かない場所にいってしまう人は減るから、気づいてほしい。自分がやられて嫌なことはしない。嫌なことをされても仕方ない、なんて理屈はない。

“誰か”の話じゃなくて、私たちの目の前でさんざん起きていることだから、次の誰かを追い詰めないために、気づいたときに止めてほしい。もうやめよう、こんなこと。今日の当事者じゃなくても、いつかの当事者にならないように、みんなが考えてほしいと私は思う。

2020年5月23日(土)

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