違ってても、嫌いでも、みんなで生きていく

人間は全員が違う人。たとえ一卵性双生児で顔や遺伝子がそっくりでも、やっぱり違う人。

違うからこそ、同じな点があると喜びを感じる。同じ人間だから、共通点も山ほどある。同じ国に生まれた。同じ性別に生まれた。同じ世代に生まれた。同じ趣味がある。同じ食べ物が好き。

“同じ”方が居心地がいい。“同じ”にいると自分の存在も尊重されるようで、ほっとするから。共感できるのは、とても生きやすい場所だ。そのこと自体は、とても良いことだと思う。違う人間でも、“同じ”点を見つけて理解し合えるのは、素晴らしいことだから。

でも、だからって“違う”を忌み嫌うのは違うと思う。“違い”に気づいて悲しむのも違う。それは“違う”だけで、それ以上でもそれ以下でもない。

そもそも“違う”中に、“同じ”がある。“違う”のが大前提なのに、“違い”を見つけて排除して、居心地のいい世界を作ろうとするのは違うと思う。


誰かが何か悪いことをしたとき。「この人は私とは違う」と、自分との違いで責める人が多い気がする。肌の色が違う。生まれた国が違う。宗教が違う。性別が違う。世代が違う。

誰かがやっていたら、明らかに「差別だな」と思うはずなのに。自分事になったらあっさり「私とは違う」と言う言葉を言ってしまうのはなぜだろう。自分の側にいるのが怖い、自分も同じように見られたくない、と思ってしまうからだろうか。


「多様性」という言葉を聞く世の中で、私も好きな言葉だ。「多様性がある」と思うのは、「多様性がない」と言う人の多様性もまた、「多様性がある」と思えることだから、とても面白い価値観だと思う。

違いがあると、うまくかみ合わないなって思うこともあるけれど、それもまた面白さでもあって。違いって面白い。「違う」のは決してネガティブな言葉ではなくて、冒頭で書いたように、とても人間的だと私は思う。

「こんな全く違う考え方をするんだ!」とポジティブに受け止められたら、自分の知らなかった考えや価値観に触れられて、たくさんのことを吸収できる。もちろん良いことばかりでなくて、自分にとって良くないことも吸収して、傷つくこともあるだろうけれど。


でも、やっぱり“違い”を認めない風潮ってのは、一部であると思う。自分と違うものを排除しよう。理由は、自分とは違うから。

みんな最初から違うのに。だから同じことに喜びを感じるのに。同じということにとらわれて、違うというだけで排除して、傷つけて良い理由なんかにならないはずなのに。

どうしたって気に入らない人はいる。どうしたってわかり合えない人はいる。私は人付き合いが苦手だし、どちらかと言うと「合わない」と思う人の方が多い。

お互いに嫌い合っている人たちもいる。一方的に嫌ってしまうこともある。

それでも、自分とは違うから、自分が気に入らないからって排除しちゃいけないと思う。

自分と違う人は、自分とはまた違う環境で、別の誰かが認めてくれるところで、生きていくだろう。誰にだって居心地のいい場所や、生きやすい場所や、とにかく居場所があれば、生きていけるから。


人間は一人だ。でも一人だと寂しいから、誰かと一緒にいたい。一緒にいるなら一緒にいたい人といる方が良いに決まってる。だから、“同じ”人といたい。同時に、自分とは“違う”と思ってしまう人だって生きている。

それでも、みんなで生きていくんだ。自分にとってどんなにひどい人だって、人生を歩んでいくことだけは尊重しなければだめなんだ。

それが社会だと思う。いらないものを排除する人間になったら、いつか自分が排除される側になる。それは誰にとって生きやすい社会だろう。責めるか責められるか、誰にとっても生きやすいはずがない。

それなら、理解できなくても受け入れて、どこかにいるよってことだけは理解してくれたらいい。傷つけたり責めたりする必要はない。自分が幸せならそんなことはしない。幸せになれない理由は、相手にはない。そんな責任転嫁は違うから。


違ってても、嫌いでも、みんなで生きていきませんか。

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