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負けず嫌いな子だった

小さい頃は負けず嫌いだった、フリーライターのaoikaraです。

と、両親から聞かされていた。私自身も自覚はある。小学校低学年くらいの頃か、親戚が集まってボウリング大会をした。とはいえ、ガチンコの競技ではなく、みんなで楽しもうというゆるいパーティーのようなもので。

私はビリで、しかも一人だけスコアが100点に届かなかった。自分としては大敗北したような気持ちになり、わんわんと泣いた。なぜ泣いたのかまではわからないけど、負けず嫌いで悔しくてたまらなかったのではないかと思う。

今でもおそらく負けず嫌いだけど、「負けず嫌いだった」と、なんとなく過去形で言って、こっそりと見えないところにしまい込んでいる。というのも、あまりにも負けすぎた人生だったから。

あまり勝ち負けの尺度で物事を見たくはないけれど、という断りを入れて、それでも勝ち負けで人生を見たとすれば、私は黒星だらけでまあ真っ黒。負けず嫌いな性格なのに負け続けてきたら、心が折れる。実際に折れた。ボキボキのバラバラ。

私は心を折らずに生きていくために、勝負しないことにした。たとえ勝負をしたとしても「負けても仕方ない」と言い聞かせる。「だって本気じゃないから」「だって実力がないから」と言い訳をして。

常に意識して言い聞かせているわけではない。たぶん無意識。「負けた」と思うとやっぱりとんでもなく悔しがる性根は変わっていないから、そもそも勝負をしないとか、闘わないとか、負けても仕方ないとか、心が自分を守ろうと無意識に防御本能が働いての思考なのだろう。

人生でそんな勝負する場面なんてある?と疑問に思うかもしれない。たとえばちょっとしたゲームとかでも、本気を出して負けたら本当に悔しくなりそうだから、「これは楽しさが目的で勝負が目的じゃない。楽しもう」とか思うことにしている。


でも、ときどき負けず嫌いがひょっこり出てくる。「絶対に負けたくない」と思うときがある。

たとえば絶対に欲しい限定販売の商品を見つけたら、販売日時をチェックして、スヌーズのように時間を刻んでリマインダーを入れて、当日その時間を逃さないように、万全を期して挑む。絶対に手に入れてやる、と。勝負に挑むような、力みがある。

たとえば仕事で。お正月明けで頭がぼんやりとしていたときも、「私は絶対にこれを書きたい」というネタが見つかったときに、誰にも取られたくないし、誰よりもいい内容を書きたいし、誰にも負けたくないとやる気スイッチが入った。寝ぼけ眼だったのに、ぐっと目力が入る。

たとえばダイエットで。「絶対にできないよ」と言われたら、そんなことないと思って、全て徹底する。食事は記録して栄養素やカロリー計算をするし、運動のスケジュールを組んで実行するし、規則正しい生活を送る。背筋がすっと伸びる。

勝負師になっている私は、「おうおうおうおう、やったるよ!かかってこい!」みたいなめちゃくちゃ強気になっている。内面だけで、外には出さないけど。でもふとした言葉とか、態度とか、行動に出ちゃってる。やっぱり元来は負けず嫌いなんだな。

でも、負けず嫌いだからエンジンがかかる。人生で負け続けてきたのは、おそらくダメな方になだれ込みやすい芯の弱さがあって、いつまでも倒れ続けられるようなぐーたらな性分だから。

そこに気合いを入れて起き上がるには、負けず嫌いくらいがちょうどいいのかな。


でもね、やっぱり人生に勝ち負けはないと思う。勝つとか負けるより、「楽しい」とか「幸せ」とか「心地よい」とかの方がよっぽどいいから。

それでもね、「ここだけは譲れない」って自分のこだわりがあるならば、負けず嫌いを発揮してもいいと思う。そうやって、これからも負け続けながらも、負けず嫌いで奮い立たせて、人生を進めていこうか。

2021年1月5日(水)

No.1108

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