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0→1していない

1から10まで順番に並び替えているような、aoikaraです。

ライターなんだけど、0→1のような文章を最近書いていない。たとえば、きっとnoteなんかは0→1だろう。この1は、圧倒的に“自分”だ。書いていない私は、自分自身に今興味がないのだろうか。自分自身を文章にすることに意欲がないのだろうか。とにかく、0→1をしていない。

書いているのは、最初に書いたような、1から10までのバラバラの数字を順番に並び替えているような作業。作業、という言葉の響きはポジティブでもネガティブでもなく、言葉の意味のまま、ある。受け取り手次第。

書き手の次第は、自分はそれが得意だと知っていて、でも0→1ではない居心地の悪さみたいなものもわかっていて、ポジティブでもネガティブでもない、つまりはどちらでもあるとも思っている。意地とプライドと諦めと入り交じっている。


圧倒的に“自分”である人を見ていると、自分がいかに自分でないか、流されていくのか、強く自覚する。簡単に言えば劣等感だ。自分であろうとするこだわりは強いくせに、世間や社会になじんでしまえる方が安心している。だけど、ほんの少しはみ出ているのだけれど。知らない人にはバレない程度には、はみ出ていない。

でも、はみ出ている方が魅力的だと思ってしまう。自分もそうなりたいかと言われるとわからなくて、はみ出したくないところをはみ出していて、溶け込んでいる方に憧れている自分もいて、だからはみ出しているのを魅力的だと思える人がうらやましいのかもしれない。


つまりは、0→1をしている人だ。結局はないものねだりなんだろう。自分のあるものに気づいていないだけなんだろう。自分が一番、自分に無自覚なんだろう。

だからやっぱり書きたいし、書いている。圧倒的に自分でありたい。

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