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何してんnote言いたい

このところ、noteやcakesでたびたび問題が起きている。私個人として激しい感情がわいてくるというよりは、なんというか脱力。多様性を認め合える場所であると思っていたのだけれど、誰かや何かを犠牲にする多様性になってしまっているのはなんだろうと。

そして、並べる言葉は立派な割に、同じような感覚ですよって証明してしまう出来事がまた重なって、もやもや、もにょもにょしている。

と言いながら、noteをやめる勇気はなくて、こんなことまでnoteに書いている。もやもやするけど、もやもやしながら、結局は「noteを使う」という選択をしたんだよな。でもその選択が、間違った状況を支持してるってことになるんじゃないか、とかまたもにょもにょする。

私は自分の気持ちをnoteに書くことでバランスを取れているから、なくなってほしくないと思うし、noteだけで交流できている関係もすごくありがたいし、心地いいと思っている。私にとって必要な居場所であって、奪われたくないし、まだ自分から離れようとは思えない。

だから、たぶん、さまざまな出来事について思うところはあっても、言葉には出さず時間が経つのを待っていた。のは、自分の居場所を守るためで、なんというかずるいよね。知らない振りしているんだから。

でも、言葉にしている人の文章を読んで、私だって“思うところ”があったじゃないかと再認識させられて、言葉にしようしようと言っているくせに書いているくせにやってない自分がダサいなと思っちゃって、書いてる。


あまりにもつらい思いをしている人に「嘘だ」と決めつけてしまいたくなるのも、地続きであるはずの壮絶な出来事を「観察」として線引きしたエンターテイメントにしたくなるのも、すごく人間的で、そしてとても残酷だと思う。

第三者として目にしたとき、残酷なものを残酷ではなくてとても健全だと見せられているギャップに激しい感情がわくのだと思う。書いて、誰かの目に触れるまでに、多くの人の目があったはずなのに、その中で誰一人として「残酷だ」と言う人間がいなかったことへのこわさも同時に感じているのかなと。

でも、自分の中に一切そんな人間的で残酷な部分がないのか、と言われたらそうじゃない。むしろ、私の人生を振り返ったときに、思い当たる節があって、自分の残酷さに「うわ…」と引いてしまった。

自分の正当性ばかり主張して相手の傷をえぐってしまっていたなとか、自分とは違うと線引きしてそれっぽく社会的な発言をしてみたりしていることが何より「自分とは関係ない」姿勢じゃないかとか、自分の嫌なところを重ねてしまった。

からこそ、あまり発言をしなかったのかもしれない。圧倒的に第三者として批判できるほど、自分は正しくないなと思ってしまったから。たぶん、間違っているゾーンに行ったり来たりしているから。

そうやって考えることから逃げていたのかな。


何か問題が起きたときに、それはもう取り返しがつかないんだよね。一度壊れてしまったら、本当の意味でその問題を解決するのは無理で。解決に近い形にはできるけど、なかったことには絶対ならないから、それを絶対に忘れちゃいけなくて。

だからこそ、二度と起こさないためにはどうしたらいいんだろうって、どの立場の人も考え抜くのが大事なのかなと。そして、どの立場の人とも共有してみると、解決はできなくても二度と起こさないための道のりは作っていけるんじゃないかなと思う。

noteやcakesにそうしてほしいというよりは、まずは私自身が自分一人でもできることだから、考えない方向に逃げようとするより、ちゃんと立ち止まって考えてみようという次第で。

「何してんの」って強い言葉だけど、めっちゃ本質をついてる。「何をしているのか」「なぜしているのか」が見えてくるから。そうやって自分に問いかけないとね、きっと同じ所ぐるぐるしてる。そりゃ嫌だよ。だから、自分に言っておくよ。「何してんの」って。noteで考え抜くよ。

2020年11月19日(木)

No.698


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