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生きるって死ぬほど大変

「楽して稼げる方法を教えます」

最近、SNSでよく見かける文言。私のSNSにもたまにそんなコメントが書かれる。こういう怪しい儲かり話は昔からあったんだろうな。今はSNSという形に変わっただけで。

「タダでお金あげます」

なんてのもある。その文言を拡散してくれたら、抽選でお金をあげるとかいう。

そんなことを言われたとき、私は反応しない。「そんなうまい話はない」という気持ちというよりは、そもそも興味がない。「なんか嫌」なのだ。

「楽して稼げる方法を教えます」で稼ぎたくないし、「タダでお金あげます」って言われて欲しくもない。いや、稼ぎたいし、お金だって欲しい。生きていくためにお金は必要だから。

でも、ちゃん働いた上でお金を稼ぎたい。楽してお金を手に入れようとはしたくない。働くことに真摯であって、誠意を持って、それで生きていきたいという妙なプライドがある。

具体的に言うと、好きな仕事をして、一生懸命に働いた対価をもらい、たまにちょっとした自分だけの贅沢をして、普通の生活を送るこれが私の願い。それだけでいい。

でも、本当にそれ”だけ”なんだろうか。


好きな仕事をできている人は、どれだけいるんだろう。私はありがたいことに、書くことが好きでライターという仕事ができている。でも、現状フリーランスで人脈やツテがあるわけではないので、いつ仕事がなくなってもおかしくない。いつだって好きな仕事ができなくなる状況にいる。

今働いている人で、もちろん好きな仕事をしている人もいるけれど、そうではない人も多いだろう。

表舞台に出てくる人たちは、好きな仕事をしている人ばかりだ。だって好きな仕事を一生懸命にしている人は輝いているもの。そりゃあみんなが憧れるし、スポットも当てられる。

そうではない人は社会でスポットが当たらない。頑張っているのに。働いているのに。好きではない仕事でも、働いているだけでも立派なはずなのに「働くのは当たり前」と流されてしまう。


一生懸命に働いて対価をもらっている人は、どれだけいるんだろう。そもそも、対価ってなんだ。「時給が安い」とか「年収が高い」と言うけれど、対価に見合っているのか、逆に対価に見合ってないのか(高いにせよ低いにせよ)、何をどう判断すれば良いのだろう。

保育士さんや介護士さんとか、多忙で社会的に絶対に必要なはずなのにあまりお給料が高くない職業があるのは現実で、社会問題として顕在化している時点で、全く対価をもらえていない人がいることは確実で。

つらいけど対価として月収50万円でもらえる仕事も、好きなことで月収30万円もらう仕事も、今はほとんどない。だから例の広告が炎上した。

きっとその広告を手がけた人はもっと収入があるんだろうなと、私はひねくれたことを思った。“社会”を描いたつもりだけど、実は描き切れていない人が山ほどいることに、たぶん気づいていない。その時点で、お金のことを広告にする資格なんてない。

そのときに批判した多くの人が言っていたことだが、つらくてやりたくもない仕事で30万円ももらえていない人が本当にたくさんたくさんいるのだろう。


ただ生きるだけじゃなくて、人生たまには贅沢もしたい。贅沢といっても、豪勢なものじゃない。ちょっとした自分だけの贅沢だ。自分にとって贅沢なだけで、いわゆる贅沢とは少し違う。

例えば私は在宅ワークだからエアコンがついた家が良いなとか、誕生日にはケーキを食べたいなとか、近くに図書館やパン屋があると豊かな暮らしになりそうだなとか、そういった贅沢。ものすごく贅沢ではないけど、そういうのが暮らしにあったらうれしいな、と思えるちょっとした贅沢。

他の人たちにもあるだろう。たまにでいいからしたい、ちょっとした贅沢。旅行をするとか、ちょっといいレストランで食事をするとか、好きなアーティストのライブに行くとか、発泡酒じゃなくてビールを買うとか。

でも、きっと全てに「経済的に安定していたら」という枕詞がつく。暮らしていく余裕がなければ、ちょっとした贅沢はものすごい贅沢になってしまう。

お金に余裕がない人が多数で、そんな人は今日どう生きていくかの問題だ。生活の問題だ。ちょっとした楽しみなんて、夢のような話になってしまう。


じゃあ、普通の生活ってなんだろう。普通の定義は難しい。人それぞれ違う。「つつましくも困ることのない生活」が私の考える“普通の生活”だ。

たぶん国が定める普通の生活は、法律で言うところの「最低限度の生活」だろうか。最低限度って何だろう。衣食住があることかな。

その衣食住つまりはインフラのために、私は国にお金を払う。税金とか年金とか保険料とか。これがね、私の感覚だけで言うと「高いな」と思ってしまう。国にお金を払うたびに、生きていくのって大変だなと実感する。

「あれ、私年収これだけだけど、これ払っちゃったら手元にこれだけしかないのに、普通の生活できると思われているのかな」みたいな金額を取られる。もう「取られる」と思ってしまう感覚に、余裕のなさが表れている。

普通の生活に定められている「衣食住」も、好きな服を着られたり、好きな食事をしたり、好きな場所や家に住めて、楽しく生きる…はハードルが高すぎる。とりあえず服を着て、とりあえず食べられて、とりあえず住める。そう、とりあえず生きられるのが普通の生活。

好きな服って言ったってハイブランドなんかじゃない。好きな食事って言ったって三つ星レストランじゃない。好きな家って言ったって高級高層マンションじゃない。

高見を見ているわけでなくても、“楽しむ”ことは付加価値だし、贅沢なんだ。たぶん私が思っている“普通の生活”は国の基準だと“贅沢”なようだ。

仕方ないとも思っている。税金を払うのは社会人の義務だと理解しているし。誰かが払ってくれた税金のおかげで私が生きていけるインフラと社会がある。

それは私が今まで生きてきて、これからも生きていくために税金に支えられてきたわけだから、それは私も義務としてきちんとお金を払おうと思っているし、きちんと払っている。

そう、普通に生活のために。楽しむことは贅沢な、普通の暮らしのために。


こうやって、当たり前だと思っていたことが全然当たり前ではなくて、ものすごくハードルが高くなっている気がする。幸せになることを諦めたのに、ただ生きていくのだって大変だって気づいたら、本当につらい。

今まで水位が足首くらいまでで、「まあ大丈夫だろう」と思っていたのに、いつの間にか頭のてっぺんまで水に浸かってて、息もできなくなってしまっているような、そんな感覚がある。


あー、生きていくって本当に大変なんだ。生きられなければ死んでしまうもの。生きるのって死ぬほど大変なんだな。

世の中の人たちはみんな頑張っていると思う。高収入の人も、好きな仕事をしている人も、好きじゃない仕事をしている人も、今働けないけど生きている人も。でも頑張るのは当たり前だし、苦しいなんて言っちゃいけない空気を感じる。

社会的にも経済的にも大変だって実感することが、生きているとすごくたくさんある。苦しい、しんどい、つらいって思うだろうなと共感する。

そんな状況にいたら「楽して稼ぎたい」「お金欲しい」って思ってしまう人がいるのも、なんとなくわかってしまう。お金がなくて余裕もない世の中で、お金を得て余裕も欲しいと思ってしまうよ。

余裕がないから「楽して稼げていいよな」みたいな気持ちもあって、「あいつはずるい」と他人をうらやんで、もっと余裕がない人には「自分は我慢しているのに何もしないやつはどうかしてる」って攻撃的にまでなってしまう。社会全体に余裕がなくなってしまう。

たしかに私も「政治家の人は会議で眠れていいなぁ。楽な商売だなぁ」とか皮肉を言いたくなることもあるけど、政治家の大半がもう寝る間もないほど忙しく働いている方々だというのも理解している。それは他の人に対しても同じで、「楽してる」人なんていない。

でも、余裕がないと自分にはないものを持っている他人をうらやむ。本来はみんなが持っていて良いはずの“余裕”を持っている人が減って、余裕がないから余裕がある人を妬んで、それが攻撃になってしまう人もいるだろう。

「稼ぐ方法を教えます」「お金あげます」に対して「結構です」と思ってる私も、働いた対価を得たいというプライドみたいなものがありながらも、ただ「お金欲しい…」と余裕がなくなってしまうときがある。お金という現実に向き合ったときに、生きていくのが大変だと実感してしまって。宝くじだって買うし。

そっちには行かない。そうはなりたくない。でも、そうならないでと引き留められる要素が社会のどこにあるのだろう。


でも、お金がないのは個人の問題だと指摘される。同じ理由ではなくても、これだけお金がなくて余裕もなくて、殺伐としているのだとしたら、その個人がたくさんいたら、それはもう社会の問題なのではないか。

でも、“社会”はあまりにも主語が大きすぎて、「社会のせいだ」なんて言えない。誰かが言ったとしても、その個人の悪い点を見つけ出して「おまえのせいだろ」「個人の問題だ」と自己責任として大勢に攻められる。


私は、自分の身に降りかかってきたことは、自分の責任だと思っている。だから個人として自分で解決しようと考える。

それに私は社会を変えられるとは思っていないし、変えようと行動することもできないから、せめて自分のためにと今できる仕事をして働いて、なるべくお金を使わないで貯蓄をしている。節税対策も調べて実践しようとしている。

今はなんとかお金がないと困っていることはない。できるのはそれくらい。

だからって今困っている人に、「社会が悪いんじゃない、あなた個人の問題だ。私もそうだ」と言う気はさらさらない。決してそんなことは言えない。

本当は社会として考える時間や行動する必要があるのかもしれないけれど、多くの人はそんな暇がないほど忙しくて、お金がないから余裕がなくて、余裕がないから自分のためだけに生きて、それでも足りなくて忙しいんだ。ずっとずっと。


今回、「お金」についてこの記事を書き始めたときは、ポジティブな結びにつなげたいと思っていた。でも、難しい。

お読みいただいてわかる通り、私はお金の専門家じゃない。経済的な知識もない。危機感を抱きながらも、自分がどう生きていくか、どうお金を使っていくかを考えるので精一杯だ。

ただ、この先に絶望しかない、とは思わない。悪くしたいと思う人はいないわけで、良くしたいと思っている人たちで社会が成り立っているなら、そうなっていけるはずだという希望は持っていたい。


難しいかもしれないけれど、私の願いは変わらない。

好きな仕事をして、一生懸命に働いた対価をもらい、たまにちょっとした自分だけの贅沢をして、普通の生活を送る

「そんなのは贅沢だ」と言われない世の中であってほしい。

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