2月後半の日記
2022年2月18日(金)夜が明ける
Twitterである呟きが流れてきて、思わずいいねをつけた。
本当にその通りだな、と思う。最近自分の触れる作品の主題が、「今はしんどくても、それでも人生は続いていくから、生きていく」というものばかりである。自分が無意識的にそういうものを選んでいるのだろうか。
本日、西加奈子さんの小説『夜が明ける』を読了した。この作品もまさに、「まだ光は見えないけれど、それでも夜明けを求めて歩き出す」という主題を持っている。
作品の中で、貧困・虐待・過重労働・ハラスメント等、現代における社会問題を多く扱っている。「悪人善人というのはない。人には美しい瞬間と醜い瞬間があるだけだ」という市原悦子さんの言葉が小説の1ページ目に紹介されている。人が優しさを持てるかは、心の余裕が左右されると思っている。今の日本では、心の余裕が持てる瞬間が少ないような気がする。
作品の中で、主人公の後輩・森は、はっきり声をあげる。例えば、会社の女の先輩・田沢(同僚の男たちから女には見えないと揶揄されている)が妊娠したと噂になった場面。
あるいは、森自身の発言として、
と言っていて、かっこいいな、と思った。私もつい、「守る」「言い返す」をしてしまう。嘲笑されたり見下されたりしないために。あるいは、傷つかないために。無意識的に「戦い」にしてしまっていた。勝つことが目的ではないのに。強く在らねばいけない気がして生きてきた。
先日、大学時代の友人と飲んでいたとき、私が、
と、友人に話すと、その文脈の中で友人は、
と言っていて、完全に同意した。私はここ数年、「強く生きる」と、呪文のように言って様々なことを乗り越えてきた。
でも本来、強くなくても平和に生きられる社会であってほしい。弱くても攻撃されない構造であってほしい。もう戦いにはしたくない。勝ち負けにしたくない。壊れるような戦いにしたくない。壊れる関係性にしたくない。勝つことではなく、続けることが目的なんだから。思っていることを伝えることによって、続いてゆく関係性を構築していきたい。
作者の西加奈子さんはインタビューで、『夜が明ける』に触れられる社会問題について、以下のように述べている。
苦しみでさえ、比較して「ましだ」と思わせる空気がある。感情なんて、比較するものではないけれど、私もまた、そう思わねばいけないと思っている節がある。苦しみという感情は、比較なんて本来できないはずなのに。苦しみを他者と比べる必要はないのに。
西加奈子さんは、作品中の森を通じて「先輩には、先輩のために、声をあげてほしいんです。苦しいときに、我慢する必要なんてないんです。」「苦しかったら、助けを求めろ。」とメッセージを伝えている。声をあげていいのだと。
『夜が明ける』はハッピーエンドでは終わらない。苦しみが続いていくことを予感させる終わり方になっていた。理由は、作者の西加奈子さんが、「本当に苦しんでいる当事者のところに行って「大丈夫、夜が明ける」とは言えない」からであると言っている。しかし、タイトル『夜が明ける』が示しているように、「ひとりでも苦しんでいる方の夜が明けますように」という祈りが込められているとも言っていた。
夜が明けますように。私の夜も、あなたの夜も。安直には言えないけれど、そう心から祈っている。
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最近、私の影響を受けてか、高校時代の友人も映画『ドライブ・マイ・カー』を観て、さらには村上春樹の原作とチェーホフの『ワーニャ伯父さん』も購入したそうだ。
先日のnoteにも記載したが、これらの作品の主題も、「自分の心に目をむけ、つらいことをつらいと自覚し、それらを繰り返しながら、この先も生きていく」ことである。『ドライブ・マイ・カー』の監督である濱口竜介監督はその主題を、重奏的に意図的に表現しているように思う。
高校時代の友人と「この作品の良さは、高校生の時だったら絶対分からなかったよね」という話をした。高校生の時の自分だったら、映画が理解できずつまらなかったと嘲笑していたかもしれない。あるいは、つらいことをつらいと自覚して生きるなんて嫌だと突っぱねて終わりだったかもしれない。
今、作品の全てをわかっているわけではないけれど、奥深さに触れられているし、主題が理解できている。それは大人になって良かったなあと思える一つである。生きていたらつらいことも往々にしてあるけれど、生きていこうね。こうやって分かち合える幸福な瞬間があるから、生きていかれる気がするのだ。
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本日、担当している生徒の保護者さんと面談をした。生徒の話はもちろんだけれど、保護者さん自身の最近や生き方の話を聞ける時間は、嬉しい時間だ。保護者さんに、「あおい先生のnote読んでるよ」と言ってもらえて、さらに嬉しい気持ちになった。
書くという手段によって、私は素直になれる。noteはたぶん、今いちばん素直になれている場所だ。それを読んでもらえていることは、ちょっぴり恥ずかしいけれど、等身大の自分を見てもらえているようで嬉しい。書いていて良かったな。
「それでも人生は続くから、やっていくしかないんだよね」と心の中で呟きながら、金曜日の夜を終えようとしている。
2022年2月28日(日)立体的
友人と嵐山へ。まずは私のリクエストで嵯峨嵐山文華館の企画展「絵でみる百人一首と枕草子」を見る。枕草子にまつわる展示を多く見た。
唐の詩人である白居易の「遺愛寺の鐘は枕を欹てて聴き、香炉峰の雪は簾を撥げて看る」を踏まえ、清少納言はそれを真似てやってのけた。まさに機知に富んだやりとり。
優雅なやりとりに見えるが、政変の真っ只中に枕草子は執筆されている。中宮定子の兄・藤原伊周は長徳の変で左遷され、中宮定子は後ろ盾を失う。しかし、枕草子には中宮定子のネガティヴな姿は一切描かれていない。清少納言が意図的にそうしたのだ。枕草子には、政治的意図も含まれる。枕草子は中宮定子が亡くなったのちも、人々の心に、とりわけ一条天皇の心に、中宮定子の姿を残し続けた。そういう文章を書ける清少納言を、心から尊敬している。清少納言のように、賢い人になりたい。
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美術館を後にし、嵐山周辺を散策。ブラタモリ的な散歩をしよう、暗渠を探そう、と歩く。
暗渠(あんきょ)とは、元々川や水路であったが現在は蓋をされているところを指す。NHKの番組『ブラタモリ』で、タモリさんが暗渠好きを公言するようになってから、私も意識して暗渠を見るようになった。
今回、嵐山で暗渠探しをしたのだが、思った以上に暗渠があってテンションが上がった。元々は川だったという事実が見える瞬間。過去と現在の繋がりを感じる瞬間は、点から線へ繋がる瞬間に思えて、独特の興奮を覚える。
学ぶことの意義のひとつは、見える視点が増えることだと思う。歴史的な視点で嵐山を見ることだけでもとても楽しいが、友人のおかげで地理的な視点で嵐山を見ることができ、世界が広がった気持ちになった。
歴史という時間軸にプラスして、地理という空間軸が加わる。立体的に見ることができる。学ぶことで、世界に色がついて見えるよ。もっともっと学んでいたい。
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