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終戦記念日に思う「強者の論理」について

1945年8月14日、ポツダム宣言受諾。8月15日、玉音放送により国民に敗戦が伝えられた。9月2日、降伏文書調印。日本における第二次世界大戦が終結した。

日本で戦争は終わったものの、争いや対立は絶え間なく起こる。終戦は、日本にとって大きな区切りであるが、平和であると心から言えるのであろうか。

ヤルタ会談。それは大国の論理による世界分割の始まりでした。分割の過程で、同じ民族が分断され、肉親が引き裂かれる悲劇が始まったのでした。

先日、NHKによる「映像の世紀」が再放送されていた。映像が記録されるようになった第一次世界大戦から第二次世界大戦、冷戦までのドキュメンタリー。全11作が一気に再放送される中で、第7章「勝者の世界分割 〜東西の冷戦はヤルタ会談から始まった〜」のナレーションによる上記の言葉がとても印象に残っている。“ 大国の論理による世界分割の始まり。”

1945年2月、3人の連合国首脳が黒海沿岸の保養地ヤルタに集結した。ルーズベルト、チャーチル、スターリン。この3人に人類の運命は委ねられた。ドイツは分割占領され、ソ連の対日参戦が決定し、日本軍捕虜のシベリア抑留、朝鮮半島の分割という悲劇をもたらす。東欧では強引な共産化が推し進められ、アメリカでは赤狩りが猛威を振るった。そして、冷戦は、米ソの原爆実験にエスカレートし、ついに朝鮮戦争で火を噴いた。
-「映像の世紀」HPより

会談の意義については、アメリカ・イギリス・ソ連といった戦勝国による、第二次世界大戦後における世界の国際レジーム枠組みに関する「利害調整の場」であったとする指摘が多い。中でも、領土に関する様々な取決めについては、当事国抜きで行われたにもかかわらず、中・東ヨーロッパの政治体制・外交問題など、戦後世界に非常に広範で多岐に渡る影響を及ぼしている。

自国の利益が最優先されており、当事国抜きで勝手に領土や支配について決定された。強者によって世界が決定される。恐ろしい。

と同時に、過去のこととして割り切れない。
声が大きい強者に従わざるを得ないという論理は、身近にたくさんある気がしてならないのだ。

声の大きい人による空気の支配。

“空気”とは厄介な存在です。同調を強要する、言外の圧迫。本当の善悪を誰も顧みないまま、息ができないほど張り詰めた言葉が生まれる。他者とのコミュニケーションに伴う、諦めにも似た許容と疲弊が生む、悪い循環。いつしか“空気”は澱み、不文律のルールとなって圧力を増していきます。
-鎌田祐樹「空気と自立」『思考記2020-2021』

先日、空気がこわい、と感じる瞬間があった。内容はたいしたことないものであったが、つい、“自分がおかしいのかな”と思ってしまうほど、空気に飲み込まれてしまった。いじめや差別は、空気によって形成されることが多い。

空気というノリから外れてでも、自分の思っていることは「思っていること」として事実であるのだから、迎合するようなことはしたくないな、と思う最近であった。


あるいはフェミニズム。
先日、小田急線の車内で起きた事件で「幸せそうな女性を殺したいと思った」と、容疑者の男性が犯行の動機として語った言葉から「フェミサイド」という言葉が話題になった。フェミサイドとは、「女であることを理由に女性や少女が男性に殺される」こと。

この事件に関わらず、身近なところでも、ミソジニー(女性蔑視)が根底にあり、「女性を自分のモノ扱いしている」という発言は、頻繁に行われている。私もかつて、性差別に傷を負いながら、そのときは笑って流していくしかなかった。

フェミニズムの動きが活発になると、「男だって辛い」「可愛くない女が声をあげている」との声が聞こえたりする。論点がズレているのは明白であるが、そういう声が出てしまうほど、そのひとたちはしんどい思いをしてきたんだね、と思う。

しかし、男と女の対立や分断をしたい訳ではない。しんどい思いを抱える全ての人へ伝えたい。
自分を守るために怒っても良いんだよ。声をあげて良いんだよ。と。

強者の論理に苦しめられるが、苦しめられっぱなしでおわりたくない。諦めたくない。

分断ではなく、共存を。
押し付けではなく、対話を。

そんなことを考えながら、平和を祈り願いながら、黙祷をしていた終戦記念日であった。

雨上がりの空は、驚くほど美しかった。

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