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【詩】地下坑道五百羅漢 初夏の田


5月
オタマジャクシを手のひらですくっては、流れの早い水路に流した。
何度も、飽きることなく、水の行く先へとその姿を見送った。
田の水に手を浸すと、初めのうちは四方に散らばって逃げ出すのだが、
波紋が消えてなくなる頃には、それを見計らったかのように手の周りに集まってきた。
だから、そーっと手を動かした。
そしてそのうちの何匹かを鷲掴みにして水のない世界へと連れ出した。
手の中は水から取り出したばかりの蒟蒻のように、ぶにゅぶにゅとしていて、そいつらが指の隙間をくすぐった。
5月の田の水はぬるくて気持ちがいい。微睡んでしまいたくなる。
古い記憶の水の温もり。掌握したオタマジャクシの命。
山の上の狼が吠えている。
大きな大きな杉の木でできた狼は、捨てられた老婆に向かって吠えている。
オタマジャクシに触れた手で大犬の陰嚢(この時は誤って教えられていたが、本来は仏の座であった)を摘み取っては、中の蜜を吸った。
電車が山間を駆け抜けて行く。
わずか2両しかない寂れた車両が、山の線に抑えられて。
山の上の狼のいる、トンネルの下へと消えてゆく。
 
7月
山の上の狼が見たこともないピンク色の空に染まっている。
ひぐらしは鳴くのを止め、辺りに雷が轟いた。
空の色は一層に濃くなって人の顔まで染め上げた。
膝の悪い祖母の顔も、年頃の女の子のように赤かった。
地球が燃えている。
 

ほの暗くぼんやりと浮かぶ黄昏の田は、行き場のない舟のよう。
夜の帳がおりた田は、ひとりでもふたりでも変わりはないとでも言うように、もの思いに耽っている。
もっと夜が深まった田は、生き物の寝息をききながら、
この先の稲刈りのことを案じている。
そして朝になると、どじょうや蛙が遊び回っているのを見守りながら、
さらに先の脱穀のことを案じている。
夜の田は、ほんとうに透き通っていて、
しんと静かで、誰にも認められることのない美しい姿で、そこにある。

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