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私は私のルールで生きる。

人間という生き物が群れをなして生きる以上、ルールは必要だ。
だが、大抵のルールは守る必要がないと思っている。
だいたいは偉い人や、昔の人が先行者利益を守ろうと、マイノリティの居場所をなくそうと勝手に設定したものだからだ。

自分の人生を生きたいなら、自分のルールで生きるほうが絶対いい

ひねくれ人間と「みんなのルール」のいたちごっこ

小学3年生の時、ケードロが流行っていた。
私は足が遅く、すぐ捕まってばかりでつまらなかった。
だから牢屋に人が何人か捕まり出した中盤、私は捕まってもいないのにそろーと牢屋の近くに座って、捕まったドロボーのように振る舞い
すぐにはドロボーを解放せず、人が牢屋にたまった終盤に解放するという戦法をあみだした。

すぐにその戦法は禁止とルールが決められた。

また別の時、缶けりが流行った。
今度は、一斉に隠れる側全員で缶に突撃して、みつかっても名前を全員呼ばれる前に缶をけることで5連勝してやった。

その戦法もその日中に禁止された。

確かに私はめんどくさい子ではあっただろうが
「ずるい戦い方はダメだよ」といわれるたびに思っていた。

じゃあ足の遅い子はいつも負ける側になるしかないのか。
太っていたらキーパーをやらされて
ボールをうまくとれない子は一番最初に外野にいって暇にしているしかないのか。
「当たり前」の「普通」のルールはぜんぜん「平等」じゃないじゃないか

これは小学5年生のとき。
クラスでディベートごっこみたいなものをしましょうという時間があった。
お題は「うさぎと亀で亀はうさぎを起こすべきだったか、否か」
今思えば設定がおかしいし(普通はどっちでもいい意見が2分されるお題がいい)
自分が思う方に分かれて話し合いましょうとなったので、起こさない派(反対派)は10人もいなかったと思う。ちなみに起こす派(賛成派)は30人くらい。
(これも普通は自分の信条に関わらず平等に半々の人数に先生がわけるべきだと思う)

ひねくれものだった私は迷わず少数の反対派にいった。

賛成派の子たちは人数も多かったし、当たり前のように
「レースなのに寝てる間に亀だけ進むのはフェアじゃない。起こして正々堂々と勝負したほうがよい」みたいなことをいって仲間に拍手をもらっていた。

相手の人数に気圧されてもじもじする少数派を見ながら私は言った。
「うさぎと亀じゃスピードが違う。正々堂々勝負したら絶対に亀は勝てない。
勝負をしかけて来たのはうさぎ。お前達多数派は100%負けるとわかっている亀を走らせ、うさぎが調子にのるための踏み台にしたいのか。うさぎに有利なルールで勝負していることは正々堂々といえるのか。その上で慢心して寝たうさぎを起こすことのどこが正々堂々なのか」

やりとりは1ターンで終わった。
多数派を黙らせて、私は先生に黙らせられた。
その時はひねくれものの性として、ただ少数派について、ひねりだした屁理屈のように思っていたが、今思えばこれが私が初めて他人のルールと戦った瞬間だった。

生きているといきなり他人のルールを課せられることがある。
あまりに唐突だし、こちらの同意なく相手はルールを課して勝手に試合を始める。

家族は大事にするものだ

祖母や、先輩や、たくさんの本、多数派はみんないう。
「家族は大事にするものだ」

私は両親と絶縁している。
だが私もずっと絶縁のスタンスをくずさなかったわけではない。
「親を許せないのは自分が未熟だからか」
「コミュニケーションを密にとれば関係は改善されるのか」
と親子の「普通の」関係が築けないことで自分を責めた時期が長くあった。
そして気づいた。

許せないなら家族と絶縁すればいい。
自分のルールに従えばいい。

嫌なものからは距離をとろう。
親ガチャといわれるように、運で結びついた血縁より、自分で何十億という人間から選んだ人とのほうがよっぽど強い縁で結ばれると思っている。
私には妻も娘もいる。この家族が私の大事にする家族だ。

「私も以前は親と仲が悪かったが、改善したよ」という人がいる。
その人が親から受けたダメージと私が親から受けたダメージが同じなわけがない。
「自分が親になればわかるよ」という人がいる。
親になってもわからない。子供を自分の思い通りにしたいなんて思ったことがない。
「親と過ごせる残された時間は少ない」という人がいる。
私はもう親とお別れは済ませている。今日親が死んでもなんの後悔もない。

うまく結果がでなくても努力して続けることが大事。未来でその経験が活かされる

私は中高大学とバレーボールを12年したが、ずっと補欠だった。
どの時代の先輩からもいわれた。
「うまく結果がでなくても努力して続けることが大事。未来でその経験が活かされる」

そんなことはないよ。
自分が我慢しないといけないコミュニティなんてさっさと捨てて、
自分が思う存分楽しめるところにいったほうがいい

選手生活最後の1年間死ぬほど鍛えて、ジャンプが10センチ高くなったときに、
「自分より身長16センチ高いエースはクソして寝ておきたらまだ6センチ高いんだよな」て思って身長が関係ないスポーツをやるべきだったと思った。

もちろん他人と比較するのはやめたほうがいい。過去の自分からの成長をみないと不幸になるというのは本当にそのとおりだと思う。
だけど生まれつき身長が高い人と高さを競うスポーツはしないほうがいいし、
生まれつき金持ちの親がいる人と資金力が必要なゲームはしないほうがいいし、
生まれつき顔がいい人と合コンはしないほうがいいと思う。

人生はゲリラ戦

アイシールド21のヒル魔という大好きなキャラクターの大好きなセリフの一つに

ないもんねだりしてるほどヒマじゃねえ。
あるもんで最強の戦い方探ってくんだよ。
一生な

アイシールド21 37巻

というのがある。

人生は戦いではないし、極力戦いは避けたほうがいい。
勝ったとしても自分も大きなダメージを負うことが多いからだ。
だから「世の中で普通のルール」で戦うことを押し付けられそうになったら戦わないことを選ぶ。自分の居心地のいいコミュニティをみつけてそこまで逃げればいい。

それでも世の中に戦いを挑む必要があるときは
多数派の、恵まれたやつのルールで戦わずに、
自分のルールで勝てるところにひきずりこんで戦う。
それが一番大事なんだと思う。

でもこれも所詮私だけのマイルール。

あなたのマイルールはなんですか

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