っぽさと私的に詩的に生きる困難さ

・夏が終わり一瞬で秋から冬になる。果物が美味しい季節になり、葡萄やリンゴをもりもり食べている。
キーツの〝秋に寄す〟とヴェルレーヌの〝秋の歌〟を思い出しては豊穣の秋と寂寞の秋を行ったり来たりしている。
詩が好きだ。情景を抽象的な言葉に落とし込んでいく作業は、人間の営みの根源だと思う。

・過日DTMスクールなるものに行ってきた。人間の出す咀嚼音は苦手なのに、機械の無機質なリズムは心地よく感じる。レッスン終了後に先生が作った曲を聞いた。「これはちょっとオーケストラ風です」と言って流した音楽はなるほどクラシックぽい音だった。でもリズムがDTMっぽかったので、やはりオーケストラっぽいDTMであってオーケストラではなかった。(それは悪いものではない。嫌いでもない。)などとこまっしゃくれたことを書いているが、お正月の特番よろしく、目隠しをされてどちらが生演奏でしょうとされるとちょっと自信がなくなる。

・何ヶ月か前、ショート動画を眺めていたら、家にあるものを駆使してハイブランドのモデルになりきる、というのが流行していた。今はもうそれらを見ることは無くなったのだが、どれも特徴を表していてなるほど「ぽい」ものを楽しむ文化があるのだなというのを知ったが、と同時に、「本物」とは何か、ということを考えている。

・技術が発達した今、誰もがそれっぽいものを作ったり、それっぽいことを言ってみたり、それっぽい何かを生み出すことができる。もはやごく私的な体験や感情の発露からなる芸術・芸事ではなく、「知識っぽいもの」や「情報っぽいもの」「正誤っぽいもの」でしか物事を見れなくなってしまうことに、少しの危機感を覚える。

・では創作や表現が全て「うちなる体験」や「オーセンティック」を追求したものになってしまうと、私は男の人が主人公だったり、モテる女性や、猫が主人公の創作は書けなくなってしまうだろう。

・見よう見まねで詩を書いてみる。模倣も研鑽のうちとして、繰り返しているうちに、自分の血肉となり、自分の言葉になると信じて。


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