見出し画像

学校に行けなくなったその日

娘は電車で通学していました。いつも夫と一緒に家を出発していました。その日はたまたま私の仕事が休みで、なんとなく「今日はママと行こう!」と声をかけました。本当に何の気なしの発言でした。

様子がおかしくなったのは、電車に乗る直前です。娘の足が止まるんです。私は電車に乗るつもりはなかったのですが、なんだか心配になって一緒に乗りました。学校の最寄り駅につき、そこでバイバイして私は引き返したのですが、泣きながら娘が追いかけてきました。「ママ!!学校に行けない!!」

それから、まわりの子供たちの目もあるので、裏通りから学校に一緒に向かいました。時々立ち止まっては不安そうな顔をしています。私の頭の中は???だらけです。けれど、私が落ち着いて対応しないとますます娘が不安になると思い、平静を装っていました。自分でもびっくりするくらい平静でいられました。心の片隅に、(いつか学校に行かなくなる日が来る)という思いがあったからだと思います。でも、頭の中はフル回転です。ありったけの可能性を考えて、それに合わせた対応も考えて、色んな被害を最小限にとどめようと必死でした。

娘自身はパニックでした。「なんでこうなるのかわからない、足が止まるの。ママと離れると思うと不安で仕方がなくなって涙が出てくる。」と。最後の横断歩道は渡ることができませんでした。それでも、家に戻るという選択肢が娘にはなく、「学校に行かなきゃ。けど足が進まない!」と泣いてばかりでした。そんな娘を何度も抱きしめて落ち着かせ、「今日は休もう」と話してきかせました。けれど、学校を休んだことのない娘は納得ができず、苦しむばかりでした。私は幼稚園から学校を休んだことのない娘を誇りに思っていましたし、娘も私が誇りに思っていることを知っていました。”皆勤賞”に私がこだわって育ててしまったそのことも、娘を苦しめたのだと思います。

私が学校を休むことを決めてしまっていいのか、しばらく悩みました。けれど、「ママが決めます!今日は学校に行きません!!」そう娘に宣言し、ささっと学校に電話をいれ、夫にも状況を話して家に帰りました。そうすることが、娘にとって一番精神的な負担が少ないとその時は判断したんです。家に戻ってからは、わりと穏やかな娘になっていました。時々めそめそと泣いてはいましたが、ほっとした顔をしていたのは明らかでした。明日からどうしよう・・・、私はそればっかり考えていました。

この日から数か月、我が家は大変でした。仕事の調整はもちろんのこと、娘は母子分離不安が非常に強くなり、家でも私のそばにずっといました。トイレも何もかもすべての行動を共にしないとだめでした。夜寝るときは両手をつないで、そして顔は娘の方をむいて、それも角度まで指定されていました。ガッチガチに娘の安心するスタイルに固定され、それに付き合っていた私のメンタルがつぶれるのも時間の問題でした。「育児ノイローゼ」という言葉が脳裏をかすめました。さらに、分離不安は夫に対してもありました。仕事に行くパパを泣きながら見送り、ハグをして「絶対生きて帰ってきて!」とそんな状態でした。戦時中じゃないんだから、と思いましたが、分離不安ってそんな簡単なものじゃないようです。きっと特攻隊を見送る気持ちくらい追い込まれるんだと思います。

私は一人で行動することができなくなり、日に日に追い詰められていきました。我慢ができない私と娘が衝突し、2人が家を飛び出すこともありました。大変なのは夫です。行方がわからなくなった2人を探すために、マンションの警備員さんのところで防犯カメラの確認をさせてもらったりしたこともあります。(この事件は、結果的に2人ともマンションの外には出ていなかったので、防犯カメラには映っておらず、余計に捜査が難航したようです。)荒れる2人を相手に、夫は声を荒げることは一度もなかったと思います。ほんとにすごい。私は娘にコントロールされすぎてメンタル崩壊、娘は私に拒絶されて「ママがそばにいてくれないなら死んだほうがましだ!」となっていました。

私も娘もこの時期の記録は、時系列があまりよくわかっていなくて、記憶が断片的です。私の方はまだ心療内科の薬も安定してなかったのだと思います。その後、眠剤をもらうようになり、睡眠をちゃんと調整できて安定するのですが、ためしに眠剤の飲まないとどこまで起きてられるかチャレンジをしたら、見事に朝まで起きてました。翌日は悲惨ってもんじゃありませんでした。子どもたちに、ちゃんと夜眠れているのか聞くようにしているのは、私の経験から来ています。

たぶん、この悲惨な時期は9月下旬から10月だと思うのですが、11月には娘はCTY(ジョンズホプキンス大学のギフテッド向けオンライン講座)の試験を受けに行っています。今はもう存在しないのですが、理数特化型のフリースクールにも週1で行きはじめます。決して、生活が落ち着いていたわけではありません。まだまだ荒れくるっている時期です。今思うと、なぜここまで行動できたのか不思議でもあります。このときはまだ有休の時期で、お金には余裕がありました。フリースクールの入会金はすごい金額だったので、夫には言えませんでした。月謝も、最後の最後までちゃんとした金額は言いませんでした。もちろん、CTYの金額も夫は知りません。私のお給料から全て出していました。そうなんです、習い事の金額を、うちの夫はほとんど知りませんでした。教育にかかる資金面の考え方の差が大きく、言えなかったのです・・・。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?