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気持ちを引き出す作業と意に反する転校

不登校になる前から関わってくださっていた心理士さんと、何がつらいのかをみんなで一緒に探ってみようという作業が始まりました。以下のことを引き出すのに、面談回数は10回ほど必要でした。娘自身も何がつらいのか気づいていないことも多かったです。というのも、周りと自分の違いにそもそも気づけないからです。感覚の比較というのはそれだけ難しいのだと思います。今も娘が赤ちゃんの泣き声に発狂するのを、私は理解しきれません・・・。

娘から出てきたものはこれが全てではありませんが、不登校になった頃に判明したのは以下のことです。

  • 学校帰りの子供たちの大きな声がうるさい。マナーの悪さに腹立たしい。(下校が一緒になるよその学校。その学校に訴えてほしいと娘から言われました・・・)

  • 音楽の授業がうるさい。耳をふさいでいるのは自分だけ。

  • 黒板が反射してまぶしい。席は考慮してもらえない。(みんなも眩しいけど我慢してるのかな?と思っていた)

  • 友達と話しが合わない。くだらないことに付き合えない。

  • 授業は知っていることばかりで、待つ時間が長すぎる。特に算数がつらい。(早く終わっても読書すらダメ)

  • そもそも学び方が自分に合っていない。聞くだけの授業はつまらない。自分のペースで勉強したい。(学べると思って学校に来ている)

  • 先生の頭の中に”こどもたちはこうあるべきだ”という枠がある。それに入れようとされているように感じて嫌だ。

  • 先生という権力が嫌。対等であるべき。

  • 過去のちょっとしたトラブル時の先生の対応に納得がいかない。

  • 隣の席の子の荷物の位置が気になる。

  • 制服の着心地が嫌。

  • 我慢しすぎると手や足が勝手に動き出す。それをおさえようとすると体がかたまる。(私は塾でその現場を目撃しました)

この内容をふまえて、どうしたらこの苦痛が軽減されるのか、みんなで話し合いを重ねました。まず、学校の先生との距離ができてしまっているので、その解消から始めました。これは心理士さんが色々と娘に話しをしてくださって、先生はみんなをいい方向に導くよう関わってくださっていると諭してくださいました。1回では納得しませんでしたが、学校の先生ともそこは協力して溝をうめていきました。先生に対し斜に構えていたので、先生にはあえて普通にしていただくようお願いしました。必要以上に娘に関わらない。なぜかそれが功をなして、先生との距離は改善しました。ただ、学び方に関しては私立小だったこともあり、学校の方針と合わないと判断されてしまいました。結果的に、我が家は私立小を辞めることになります・・・。これは娘の意に反するもので、つらい決断でした。

***五月雨登校で再スタートをきる************

不登校開始後1か月半~3か月まで
不登校開始から1か月半ほど経過したころ、1時間だけ授業に参加するようになっていました。だいたい体育です。私は学校まで付き添い、こっそり陰から体育を見ていました。娘から、ぎりぎり視界にはいるところにいて、というリクエストがありました。授業中は何の問題もないように見えました。逆に、とっても楽しそうに見えました。うちの子、不登校だったっけ?みたいな感覚にさえなりました。まわりのお友達もみんな温かく迎えてくれました。たまに2時間くらい授業に出ることもあり、少しずつ学校との距離は戻ってきたように思えました。先生ともこまめにやりとりをし、いつか復学できるようにと調整していってくださっていました。私がいられる別室を毎回用意してくださり、冬だったので登校前にはその部屋もあたためておいてくださったり、学校側の手厚い配慮に感謝でいっぱいでした。学校側からの希望もあり、スクールカウンセラーとも状況を共有していました。ただ、私はスクールカウンセラーの先生のことが苦手でした。「転校したい」と言い出したときに1回お会いしているのですが、WISCの結果もご存知でありながら「集団の中でやっていくには我慢しかない」と言われたことがずっとひっかかっていたからです。頼るのはやめようとこのとき心に決めました。けれど、HSCに関してはきっと先生たちに助言してくださるに違いないと期待もしていました。

不登校4か月目
ちょっと学校との関係性が怪しくなりはじめます。たぶん、私のやり方がよくなかったんだと今は思っています。私はなんとかHSCで学校がつらいんだということをわかってほしくて、感覚過敏についてアピールしていたつもりでした。けれど、「算数や国語の授業は出られるようになりますか?」との問いに、「なります!」とは言えず、「難しいと思います。」と正直に答えていました。私の中では(絶対に出ないだろう)という確信があったので、それをやんわりつたえたつもりでした。けれど、学校側からしてみれば「難しいと思う」と言われれば、復学は難しいだろうとイコールに近いものになるのだと思います。この頃には、週3で学校に行くときもあり、確実に登校時間は増えていました。教育センターの臨床心理士さんも、学校と直接やりとりをしてくれるようになりました。母親が直接言うのと、専門家が言うのでは学校の受け取り方は絶対に違うと思ったので、それはとても心強かったです。

不登校5か月目
教育センターの臨床心理士さんからの提案で、学校に来て直接先生がたに話をしてくれることになりました。いわゆる関係者会議というやつです。教頭先生やスクールカウンセラーの先生も参加され、もちろん私も参加しました。心理士さんからは、ギフテッドのことは話題に出さず、HSCをメインに話をすすめようと事前に打ち合わせをしてありました。やはり知能が高いことはプラスに受け止められることは少ないようです。”復学ができるのかできないのか”をとにかく知りたい学校側に、それは今わかることではなく、その場その場で対応していくしかないこと、完全復学を目指すのはゴール設定としてまずいことなどを話してもらいました。この頃、私はちょっと学校に違和感を覚え始めていました。全学年をみわたしても、学校に不登校の子がいないのです。そこでちらっと聞いてみました。「今、うちのような子はいますか?」と。すると、「以前はいらっしゃったりしましたが、今は(娘)ちゃんだけです。」と。それが何を意味するのか、私は考えないようにしました。

不登校6か月目
心理士さんとは、関係者会議をしてみんなのバラバラになっている方向性を、少しは軌道修正できたんじゃないかと話していました。けれど、一応聞いてみました。「学校から退学を勧められたりすますか?」と。心理士さんの経験上、私立であっても義務教育期間だからそこまで強く言われたご家庭はなかったと。不登校の子がいない学校に抱いていた違和感がこれです。学校にとって不登校児は邪魔なんじゃないかと思うようになっていました。実際、担任の先生に聞いたこともあります。「不登校の子が学校にいると、学校にとってデメリットになりますか?」と。もちろん「なりません」と言われましたが、業界のことはわからないので信じるしかありませんでした。けれど、ここ来て急展開をみせます。来月からは小5。学校側は娘のペースを待つことはできませんでした。学校に呼ばれることになります。夫には、あらかじめ私の予感を話しておきました。「退学をすすめられるような気がする。そうなったら私では冷静に対応できないだろうからお願い。」と。母子分離不安があるので、学校との話し合いはいつも夫婦のどちらかしか参加できていません。片方が娘と自宅待機でした。

私が最後に学校に行った日
悲しみと腹立たしさとで私は泣きながら帰ってきました。家に着く前に心理士さんに電話をしました。「完全復学が見込めないなら、学校の教育方針と反する。心理士さんの説明も受けたが、理解が難しい。子供たちには、好きな授業だけでて嫌いな授業にはでてないように見えてしまうから、他の児童への影響も心配。診断書もないから、外部から何か言われたときに対応できない。」と言われ、もう私は退学でいいと思ったと伝えました。診断書は確かにありませんでした。発達障害のクリニックを受診しましたが、発達障害の所見がないため出なかったのです。かわりにHSCの方で意見書を書いてもらっていました。不登校になってから半年、あまりにも早い幕引きでした。

これで本当に最後
夫だけが学校に行きました。やはり、私だけが説明を受けて、それを元に退学を決断するにはリスクがあります。学校から再度説明してもらって、結果的に退学の意思を夫が学校に伝えました。その後の手続きはすべて夫が行いました。私も娘も学校には行っていません。最後の挨拶もしていません。ただ、娘からみんなへは手紙を書きました。それを学年だよりに載せてもらうようにしました。夫は手続きが終わった後に校長先生に会ったそうです。私は1度も会っていません。この6か月間、校長先生に我が家がお会いしたのはこの1回だけです。関係者会議にもいらっしゃいませんでした。娘は自分を理解してもらえなかったという気持ちで、しばらく不安定になりました。排除される、切り捨てられる、これは大人でもつらい経験です。暗い話で終わりますが、大丈夫です。我が家には光がちゃんと差し込みます。
夫が退学手続きに走り回っている間、私は転校の手続きに走り回っていました。なんせ、3月ですから!

私立小のこと
学校とはいい別れ方をしていませんが、つらい思い出より楽しい思い出や感謝の気持ちの方が大きいです。この学校だったからこそ、娘は小4の夏まで不登校にならなかったのだと思っています。友達には本当に恵まれていました。娘の強い個性も理解してもらえていましたし、活躍できる場も与えてもらっていました。遅かれ早かれ不登校にはなったと思いますが、激しいOEがありながらも友達と一緒に学校生活を数年でも過ごせたことは、よかったなと思っています。今でも大好きな学校です。娘も、私立小の卒業アルバムは欲しいなと言っていたくらいなので、嫌な場所という思い出にはなっていません。

※内容は娘に確認してもらっています。

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