十八年前の厄災(葵の忘却のアポカリプスより)
葵の書く忘却のアポカリプスより
総文字4572
「お、お待ちください。皇帝への謁見希望は一月後とされて──」
「何を呑気な!此度の【焔】入団希望に何故皇子がおる。一月も待っておれぬぞ」
憤慨した屈強の騎士ウォルトを止められる人間はこの場に居ない。4人の衛兵はなす術なく壁際まで吹き飛ばされた。
「ふふっ。相変わらず威勢のいい。【焔】への入団希望は僕が直々にしたんだよ」
鈴のように笑う救世主の声に衛兵らは倒れたまま天を仰ぎほっと胸を撫で下ろした。鮮やかな金髪を腰までたなびかせた皇子がウォルトの不服そうな視線をさらりと流し、バルコニーからこちらに手を振っている。
「一体何をお考えですか。貴方は未来の皇帝ですぞ。【焔】は──」
「勿論、知っているさ。ウォルト達が命を賭けて“招かれざるもの“と戦っている事も。でも僕ら皇族だけが甘い汁を啜っているのは耐えられない。僕は母様と、まだ小さいリーザを守りたい」
「父君は良いのか?」
意地の悪い問いかと思ったが、リーシュは少しだけ間を置き、迷いない瞳を向け深く頷いた。
「父様はウォルトに鍛えられているでしょ、それに父様だって若い頃は【焔】に属していたって聞いたよ」
確かに皇帝は文武両道。武術に関して戦場の最前線である【焔】は適任だった。
とは言えリーシュはまだ齢20歳と若い。現皇帝であるヨハネスが当時在籍していた時の年齢を考えると、入隊を急ぐ必要もないのだが。
「いいですか、リーシュ皇子。父君が在籍していた頃と今は違う。当時の敵はシャルムであり、今我々が戦っているのは全く未知の生物です」
「それも知ってる」
「では何故? 例え未来の皇帝であろうとも、我々【焔】は己の命は己で守ること、そして己の命を大切にしない者は入団する権利すら与えられぬ上」
「『他者を守る力を持たない』だろ」
何とかリーシュの入団を止めるべく口実を並べたが、やはりヨハネスの息子。彼は一度決めたら絶対に動かない。
「僕が父様にお願いしたんだ。力は弱いし、身体も丈夫じゃない。このままだとこんな者が未来の皇帝なのかと笑い者になる。だから、僕は力が欲しい。リーザを、このメタトロン帝国に住む皆を守る力が!」
ならば【焔】ではなく戦術面を学ぶ【威】にすれば良いのではと内心思ったが、彼は彼なりの考えがあるようだ。
ブラウンの瞳に一切の迷いは見えなかった。
メタトロン国内だけではなく、エデン全体から届く数多の求愛に目をくれず、ただ国の行く末を考える若き皇子。
リーシュの心に迷いが無いことは十分理解している。とは言え、“招かれざるもの“と対峙して彼が万が一命を落とした時、果たして誰が責任を取るのか。
武術を学ぶだけならば他に幾らでも方法がある。それを、何故わざわざ最前線の激戦区である死地へ赴く必要があろう。ウォルトは彼の本意を悟るべくもうひとつの意地悪い質問を投げかけた。
「リーシュ皇子、【焔】に入団するには魔装具を扱う必要があるのです。ですから──」
「それも大丈夫。僕は熾天使に認められたんだ」
最後の切り札も失ったウォルトはそれ以上彼を止める術を持たない。百戦錬磨の騎士団長は若き皇子に論破されて負けた。ただそれだけの事なのだ。
◇
「嫌な風だ」
ウォルトは眉間の皺を深く刻み、指先で生暖かい風の行末を追った。とある天使の生誕日と呼ばれる本日はエデンの暦的に最高の日だ。メタトロン帝国の未来の皇帝となる皇子の初陣に打ってつけ。
良い日のはずなのに、数多の戦を潜り抜けて感じた死を呼ぶ風の流れに、ウォルトは【焔】の右腕を呼びつけた。
「【威】からの報告では、メタトロン西側から“招かれざるもの“の気が満ちていると」
「シャルムはどうか?」
「静観しているようです」
「ならば、こちらから撃って出るかそれとも……」
ウォルトはヴィクトールと共に初陣に緊張しきっている新兵らと皇子へ視線を向けた。このピリピリした空気は必要だが、極度の緊張は体を縛りつける。そして敵のクラスによってこの戦の流れはすぐに変わる。
──やはり彼はまだ戦場に出るのは早い。連れ出すのであれば、シャルムとの最後の戦いまで備えるべきだったと思ったが、時既に遅し。
「団長。私の身は私で守りますので、どうぞお気遣いなく」
一応皇子としての素性を隠した鉄仮面の奥で優しいブラウンの瞳が少し微笑んだように見えた。
元々【焔】に志願した者達は全て《己の身は己で守る》を鉄則に訓練している。皇子だから、という理由だけで彼を特別扱いなどしない。だからこそ彼もウォルトではなく、団長と呼び、自分を僕ではなく私と呼び方を変えているのだ。
(全く──これではどちらが子どもなのか。リーシュ皇子の方がよほど出来ておる)
ウォルトは一切の迷いを捨て、全軍に待機を命じた。嫌な風はさらに生ぬるくなり、肌をざわつかせる。彼の予感は【威】よりもよく当たる。しかも、悪い方へ。
待機から一刻もしない間に、茶色い地面がザワつきながら灰色へと変色していく。それに触れたものは全て灰になり、砕け散った。
「な、何だこれは」
「狼狽えるな。これが“招かれざるもの“の先発だ、《召剣・グレイブシーザー》」
ウォルトが先陣を切り、愛剣で見えない結界を張った。何人たりとも侵入を許さない絶対領域。
未だかつて人でこれを破った者はないが、“招かれざるもの“のAランク以上となれば話が違う。
「す、すごい……これが団長の力」
彼の張り巡らせた領域の外で弱小の“招かれざるもの“が暴れているようで、結界の下側で何かがぶつかり生き絶えた黒い血が飛び散り変色した。鼓舞された新兵達も各々《召剣》して見えない敵と対峙しはじめる。
「ウォルト様、異常な魔力濃度が近づいております」
ヴィクトールが2本の剣を十字に構え、妙にザワザワする気配に神経を尖らせていると、横にいた兵士3人が同時に彼の視界から消えた。
不気味な黒い斑点を持ち、透明になる触手が蠢いた。
「【威】、クラス判別を急げ!」
攫われた兵士は一瞬で喰われた。実体の見えない“招かれざるもの“を相手に、新米の多い部隊がここに固まった所で太刀打ち出来ない上、敵の餌にしかならない。
ウォルトは頼れる右腕に目配せし、新米の兵士らを連れて城の守りを固めるよう伝えた。
「頼むぞ、ヴィクトール」
ヴィクトールらが馬を駆りその姿がようやく見えなくなる頃、ウォルトは少しだけ溜め込んだ息を吐き出した。
ほんの一瞬の隙。そこから彼が貼った領域の中に異質な空気が混ざり込んだのだ。
ドス、という鈍い音と共にウォルトの腹部から一気に血がじわりと滲む。魔法で完璧に編まれているこの鎧を貫通する力が結界の中から出たのか。
痛みを堪え、視線を動かすと“招かれざるもの“の刻印をつけた見知らぬ男がケタケタと壊れた機械のような声で嗤った。
「ちぃっ……」
忌々しい、と愛剣を振り上げた瞬間、その機械はピタリと静止した。
見たことのない美しい銀白色の剣を握る皇子が珍しく唇を噛み締めている。
「ウォルト! 何故こんな無茶をした。お前は常日頃から己の身を守れない者に他者を守る資格は無いと言っていたではないか」
全力で叱る皇子の声も遠い。このままでは全滅。取り返しのつかない判断をしてしまったのか。
「リーシュ=ローゼンハインが命ず! 全軍撤退せよ」
◇
「ウォルト様……よ、良かった、ご無事で」
エルフの少女、ララの流す大粒の涙にウォルトはふと視線だけ左右に動かした。揺れる滑車の上、つまりあの“招かれざるもの“から撤退したのだろう。何たる事だ。あの化け物は多分Sクラス。あれを放置する事はエデンの壊滅を意味する。
「ぐっ……」
「まだ無理です、ウォルト様……辛うじて急所から逸れておりましたが、内臓にもかなりの損傷があります。暫くは絶対安静に」
「リーシュは……」
「えっ……?」
不老不死の血を持つエルフのララとは【焔】が出来た頃から共に生きている。しかし、彼女はあれだけ慕っていたはずのリーシュの名前を聞いても彼女は可愛く首を傾げただけだった。
瀕死のウォルトがメタトロン帝国へ戻った時、全てが終わっていた。謎の“招かれざるもの“の襲撃、そしてヴィクトールらが城にたどり着いた時、既に帝国内は大戦場と化していた。
応急処置を受け、動けるまで回復したウォルトはヴィクトールと合流し、城の中に蔓延るBクラスの“招かれざるもの“らを始末し、事なきを得た。
「ほ、報告です! 城下町西側の被害が増大しております」
「何じゃと……!?」
「行ってください団長、貴方の大切なあの方を守る為に」
ヴィクトールに後押しされたウォルトはララの静止も振り切り、そのまま城下町西へと駆けた。途中、何度も小粒の“招かれざるもの“が飛びかかってきたが、彼の気迫と右腕を振り上げるだけでそれは左右に四散した。
(サナ──、クオン!)
願い虚しく、そこは瓦礫の山と化していた。西側の城下町は全滅。傷口が開き、再度また出血に苦しむのを一切無視し、ウォルトは自宅であった場所の瓦礫を持ち上げた。
周辺の家全てが黒い血で染められており、中には胴体部分だけが転がっている人らしき存在や、この場でも王宮警護団が戦ったと思われる痕跡はあるものの。
何故あの時、【焔】全軍率いて外に出たのか。仮にヴィクトールをこちらに配置していたら結末は変わっていたのでは無いか。
【威】の詠みに頼りすぎている。これでは、彼らの匙加減ひとつで国が滅びかねない。
誰に伝えたら理解してもらえる。
誰がこの虚しい戦を終わらせてくれるのだ。
がくりと膝をつき項垂れたウォルトの瞳に涙は無かった。傷ついた身体に追い打ちをかける冷たい『灰色の雨』が降り注ぐ。この雨が降る時は、“招かれざるもの“が撤退した時だ。
「リーシュ皇子は……」
Sクラスの“招かれざるもの“が出現したのだ。自分が生きていることが奇跡のようなもので、彼がどうなったのか誰も知らない。
奇妙な事に、あの時何があったのかララに尋ねてもウォルトが人型の“招かれざるもの“と相打ちのような形で倒れていたとしか報告がなく、リーシュ皇子について尋ねても明瞭な返答を得られなかった。
恐ろしい事に、彼らの記憶からリーシュ皇子の存在そのものが消えていたのだ。皇子の事を覚えているのは、ウォルトとヴィクトールのみ。
記憶を消す“招かれざるもの“が現れたのか、それともリーシュ皇子が振るったあの魔装具の力なのか。
傷が漸く癒える頃、ウォルトはヴィクトールに内密で一人で【威】の暴挙を止めようと立ち上がった。
誰かが止めなければならぬ。
戦場は常に変わるもの。彼らの戦術はあくまでサポートのひとつであり、それだけに固執する事は内々でもしも手を引いている人間が居た時にすべて崩壊する。
「ヴィクトールよ、後は頼んだぞ」
メタトロン歴348年、帝国内で初の内乱が起きる。