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男湯に行き続けたかった話

 私は父に育てられた人間だ。両親共に「共働き」当時は築40年を超えていたオンボロ市営住宅に風呂というものは隣接しておらず、2日に1回父が休みの日に近所の某銭湯に行くのが日課である。

 昔っから姉は父と仲が悪く、母が仕事休みの日曜日とプラスどこか平日1日しかお風呂に行かない人間だった。私を連れて姉が銭湯に行くなんてとんでもない。姉は私に対しての関心も皆無だったので結局私と3歳年上の兄を連れていくのは父の仕事となっていた。

「今日も〇〇湯行くぞ」

 兄は熱いお風呂が嫌いなので結構嫌がってましたがこれは仕方がない。私は毎度毎度銭湯にある『ケロリン』が好きだったのでこの時間をとにかく楽しみにしていた。
 熱い風呂は大好き、そしてここに行くと見知らぬジジ達が私と遊んでくれる。毎度毎度知らない近所のジジ達の背中を流すのが大好きだった。そして顔を真っ赤にして1分もお湯に入っていられない兄をげらげら笑うのが大好きだった。

 そう、私は女。もう本当に年齢制限ギリギリまで男湯へ通っていた。

 別にそれを変だと思ったことは一度もない。むしろ、父と一緒のお風呂に行かないのが不思議だったし、番頭さんに止められるまで本気でまっすぐ男湯に向かった。誰も止められない。

 男が女湯にママと入るのは赦されて、何故女がパパと男湯に入るのは赦されないのか?
 これが本当によくわからない。男女差別じゃないか。

 もう一つの銭湯では私が行こうとすると止められ、番頭さんの前で延々に泣き続けて結局お風呂に入らないで帰ることになった。
 この私が唯一入店(男湯に入らないと行く意味がない)できた銭湯には実に9歳まで入っていた。

 お湯の温度は45度がベース。高齢のじいちゃんがわんさかいたので基本、ご高齢であろうと熱い風呂を愛する人ばかり。函館の冬は寒い。温い銭湯に行って湯冷めしたら死亡フラグしかたたない。

 兄はお風呂でも落ち着きがない人でケロリンを持っていつもバタバタ走り回っていた。父はそれを怒って止めてまず風呂に兄をぶちこむ。
 熱い風呂がとにかく苦手で、ゆであがりの早いサルは1分持たずにすぐに風呂から出てまたきちんと洗ったのかわからないくらいの速度で体を洗い、またバタバタと落ち着きなく遊ぶ。その度に「コラ!」と父の怒声が響いた。
 私は6列並ぶ洗い場の一角にいつも腰の曲がったじいちゃんがすごくゆっくり体を洗っているのが気になり、いつもそのじいちゃんに声をかけていた。勿論、どこに住んでいるのか知らない人だ。

「じっちゃん、背中洗おうか?」

「お嬢ちゃん悪いねえ」

 変な鼻歌を歌ってそこいらに並ぶじいちゃん達の背中を本当に順番に洗っていた。時に若いおじさんが銭湯に来ることがある。勿論子供を連れて。
 私は自分を男と思っているので全く気にしないのだが、やはり若いおじさんから見ると私の存在はかなり異質だったらしい。
 多分、身を粉にして働く母親を誰も見た事がない環境だったので、私は『シングルファーザーに育てられている可哀そうな女の子』という勝手なイメージを持たれていた。確かに小学校でも『葵ちゃんにはおかあさん居ないんだね』とよくバカにされた。
 とんでもねえ話だ。私はとにかく父が大好きだから、勝手に始終くっついていただけなのに。

 明るかったころの私は誰であろうと挨拶はしっかりしていた。「こんばんは!」と必ず挨拶をする。その勢いで見知らぬ若いおじさんに話しかけると、おじさんはぎょっとした顔で私を見て、その後は恥ずかしそうに陰部をタオルで隠してそそくさと離れていく。ただ挨拶しただけなのに、何か変な事を言っただろうか?

 同じ地区に住んでいる悪ガキ達とは学校が違うので別に一緒にげらげら笑っても不審がられることはなかった。そもそも、私を女と認識していたのかさえ不明だ。
 今思えば、おじさんは年頃の女の子にアソコを見られるのが恥ずかしかったんだろう。全然自分は他と変わらないと思って生活していたので、何でみんなにあれがついていて、私にはないんだろう?と何度父に聞いたかわからない。
 確かに身体について「お前は女だから」という明確な返答はなかった。当時の父も相当私の素朴な疑問に困惑していたと思う。

 8歳くらいから事件は起きる。そこそこ女の子として確立した体になると番頭さんから怪訝そうな顔でみられる。

「お嬢ちゃん、ちょっと」

 若い番頭さんの時は基本NGだ。この人は中に入れてくれないのを知っている。私は小さいころから人の顔だけはしっかり把握していた。

「お嬢ちゃん、女の子はそっち(男湯)に行っちゃだめだよ」

「いつも入ってるもん。とーちゃんと一緒に入ってるよ」

「いや、だからね、お嬢ちゃんは女の子だからこっち(女湯)」

「いやいや、とーちゃんと一緒だもん!!!」

 頑固だ。もう番頭さんが何を言ってもひたすらごねる。その度に父が困った顔で番頭さんと何か話ていたし、ペコペコ何か謝っていた。
 何だよ、私は何も悪いことしてない!だってお金だって払っているのに何で入れないんだよ、営業妨害なんてしていない。中で背中曲がったじいちゃん達が待ってるんだよ。
 結局「今回だけですからね」と父がめちゃくちゃ怒られて中に入れてもらった。それから〇曜日の×時はその人が番頭さんだから私は中に入れずにただ一緒に行って帰る日になってしまった。

 それから若い番頭さんの時は何故か父が今まで私が背中を洗っていたじいちゃんの背中を流すようになっていた。私は誰とも接触させてもらえなくなり、いつものように1分風呂に入っていられないサルを笑うだけになる。

 兄はよくケロリンで遊んでいた。瘦せていた兄はケツにケロリンをあてて「ぶーん、ぶーん」と飛行機のモノマネをしていた。函館空港になど行ったことが無かった私達にとって、空を飛ぶ乗り物というものは新鮮だった。
 じいちゃんの背中を流す仕事を奪われた私は兄の真似をして一緒に遊ぶ。
ケロリン片手におしりにはめて「ぶーん、ぶーん!」と一緒に走り回るのだ。勿論怒られた。久しぶりに父に怒られた。
 
「もう連れてこないからな!」と言われた時は泣いた。兄は落ちたげんこつが痛くて泣いていたが、私はもう男湯に来られない事が怖くてガチ泣きした。

「もうしない!もうしないもん!」

 ケロリンなんて嫌いだ。もう遊ばない。
 そんな思いでお尻からケロリンを外そうとした時に悲劇は起きる。

「あれ・・・」

 ケロリンはでっかいお尻にはさまったまま抜けなくなった。
 余談だが、兄と私の体型は全く違う。兄がおしりにしっかりケロリンをフィットさせていたのを見て、私も完全に真似をしていた。じゃないと飛行機ぶーんが出来ないからだ。

 もう上がり湯をかけて帰ろうと準備している父に何やってるんだ?という顔で見られる。

「けろりん、抜けない」

「はあ!?何やってんだおめえ」

 当時の父の顔はかなり動揺していた。男湯に無理やり連れてきて、挙句風呂桶が外れなくなったら当然問題になる。
 母が仕事しているというのはハッキリ言って言い訳に等しい。いくら子供が「お父さんと一緒が良かったから自分の意志で入ってました」と言ったところで誰が信用するだろう。
 これから大きなカブモードが発動する。まじで「うんとこしょ、どっこいしょ」状態だ。
 兄は力が無いので役に立たず、ただ爆笑してそれを見つめているだけだ。
 助けに来てくれたのは、以前私が背中を流していたじいちゃん達だった。
 多分、じいちゃん達からみて私は孫のような存在だったんだろう。「こりゃ大変だ!」とじいちゃん3人が私に駆け寄り、ひとりは事件が起きたのではないかと悟られない為にそのまま外に出て番頭さんの注意を引き付けてくれていた(と思う)
 あの頃は中に監視カメラが無かった時代なので本当に救われた。 
 多分、御年80を超えていたであろう逞しいじいちゃん’sは私のしりのケロリンを2人がかりで引っ張ってくれた。兄はその光景を笑うだけで何もしない。勿論、私の体が引っ張られないように父は必死に私を抱っこしてくれていた。

「いたい!いたい!いたい!」

「我慢しろ、おめえが悪いんだべさ」

「いだいいいいいい」

 相当シュールな光景だった思う。大きなかぶ(ケロリン)は無事に抜け、私のお尻から無事外れた。その際にじいちゃん’sの片割れが後ろにひっくりかえって尻もちをついてしまったので、父はまたじいちゃん’sにぺこぺこ頭を下げていた。 
 満足そうに微笑む勇者2人の笑顔に私は「じいちゃんありがとう」と泣いてお礼を言ったが、この後しばらくパンツラインに沿ってケロリンの痕跡は消えなかった。※良い子は絶対に真似をしてはいけない。


ー2ー
 

 風呂以外にも私には問題が多かった。
 休憩時間に「女子トイレ」というものに行けなくて困った。女子が怖くてトイレに行けない。何でトイレが男女分かれているんだろう、この後ろに並ぶ時間が恐怖で具合が悪くなる。

 この話は担任にもしたことはない。どうせ誰にも理解してもらえないと思ったので、本当の緊急時は教師が使っている教師用トイレに忍び込んだ(要するに普通の共用トイレ)
 それ以外は用を足すことができないので、学校が終わるまでトイレへ行くことができない。よくもまあ膀胱炎にならなかったなと思う。だから水分は極力飲まなかった。これが東京に住んでいたら多分脱水で死んでいただろう。
 


ー3ー


 男湯に年齢制限の紙が貼られるようになったのはいつだったろう。
 今まで普通に入れていた場所に私は突然『入店拒否』された。ショックだった。自分の全てを否定された気分だ。
 父は勿論理解しているし、おばあちゃんの番頭さんも私を止めた。兄はいつも私も行くのに来ないことを不思議そうに見ていたが、「もう葵は中に入れないからな」と兄の手を引いて中へと消えていく。
 私は女湯に入ったことがない。どうしていいかわからず途方に暮れた。でも母親も怖いし姉とも言葉を交わすことなんて無いので、どうやって女湯で過ごしたらいいのかわからない。
 男湯に入れなくなったことはすぐに母の耳に入り、私は日曜日の夜に母と姉と3人で徒歩で行ける別の銭湯へ行くことになった。

 お風呂の温度は41度と43度の2種類。私が通っていた〇〇湯と比べると物足りない。私の尻をはさんだ憎たらしいケロリンがこっちを見ていた。
 母はサウナが好きだったようで、時間がたつと密室へ消える。姉はお風呂が好きではなかったのでぱっぱと洗うと勝手に一人で風呂から出ていた。
 右を見ても左を見てもアハハ、ウフフと雑談をする女の声が耳障りだった。何でここには女ばっかりいるんだろう。(普通に考えると当たり前なのだが、私は自分の性について認識していなかった)
 私はここにいるべきではない。ここは嫌いだと猛烈な吐き気を覚えて風呂場から出ようと走った。

 男湯と違い、女は体をとにかく洗う人が多い。当たり前なのだろうが、床は石鹸やボディソープの残骸でつるつるしていた。
 男湯と同じ要領で動いたものだから、私は転んだ。頭を強打してそのまま白い天井を見上げていた。
 サウナから出てきた母に助けられてすぐに風呂から出たものの、それから私は母達とあの風呂へ行くのをやめた。
 母は人目をとにかく気にするタイプだったので、私がバカやって転んだ時は激しく叱咤してきた。姉も何やってんだか、とあきれた顔で見てくる。行きたくもない風呂で、2人から冷たくあしらわれるのが嫌だった。

 男湯には入れなくなったが、元の〇〇湯に父達と一緒に行く道を選んだ。こっちの風呂は熱いので、基本女湯はスカスカだ。耳障りな声もしない。かっぽーん、という音がたまに響くだけ。壁にあるタイルを1目1目無駄に数えて何分お風呂に浸かるというのをやっていた。

 父達よりも必ず早く風呂から出ていた私はボロボロの扇風機とにらめっこするのが日課だった。母と姉とうまく適応できない私を哀れに思ってくれていたのか、父は必ず私に「ごめんな」と言って瓶のフルーツ牛乳を買ってくれた。
 男湯には入れなかったけど、フルーツ牛乳があるからいいや。
 
 今の世の中は性に対して寛大だと思う。当時の私にも、もう少し救済があればもう少し違う道があったかもしれない。
 
 それから数年後、ケロリンが撤去されてしまった。別に私のせいではないのだが、時代の移り変わりかもしれない。ごめんな、ケロリン。




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