発達障害はまだスタートラインにも立てていない

  0 発端

 みらいさんという(みらいさん呼びでいいのか知らないが)発信者がいる。アカウントが3つあってそれぞれで発達障害に関する情報や想いをツイートしている。(メインは『みらいのリスト』でいいのだろうか)

 結構な頻度で呟くのでよくツイートを見させてもらっている。普段なら引用ツイートで肯定なり反論なりをするのだけど、たまには趣を変えてちゃんとした文章にしてみたいと思う。

 発端はこれだ。みらいさんのアカウントの一つである『発達障害のニュース』から、5月31日に投稿されたこのツイート。画像でツイート内容を引用させていただく。

画像1

 

 このツイートを見て、俺は相当モヤモヤした。普段なら引用リツイート」するけど、なんかそれだとTLが汚染されるレベルでツイートすることになりそうだったから今回は初めてnoteを使ってみる。

1 発達障害=なんもできない人

 結論を言うが、俺はこのツイートには賛同できない。これが一般人の目に届けば混乱すら招くのではないかという懸念まである。
 あ、その前に身分を明かさないと。俺は群馬で大学生をしているものだ。そして俺は発達障害当事者ではない。医者には小1の時にアスペルガーだと言われたが親の未来志向と、「頭がいいから困ってもなんとかできる」という医師による(謎の)判断のおかげで診断はもらわず、度重なる問題行動(多動傾向による授業中の出歩き、授業ジャック、窓ガラス叩き割り事件とか)によって小学校の間だけ通級による指導を受けた非当事者だ。今風に言うとグレーゾーンである。

 ただ、周りが死ぬほど助けてくれたおかげでなんとかやってこれた。恵まれた方だ。ランドセルの中を片してくれる友達がいたし、ロッカーの中を一緒に整理してくれる先生とか友達がいたし、好きなことどんだけ話しても聞いてくれる友達がいたし、反抗性挑戦障害マシマシの俺と真っ向からぶつかってくれた先生もいたし……と、そんな感じで。多分、みらいさんの、そして当事者たちの理想がそこにはあったのだ。だから俺はその理想を肯定するし、素晴らしいものだと思う。

 それなのに先のツイートに反論したいのにはきちんとした理由がある。それは、その理想までの道筋が明示されないまま理想だけがふわふわと一人歩きしているように映ったからだ。

 詳しくその話をする前に、普通の人が困っていても誰も助けてくれない、という話をしておきたい。これは前提だ。

 子供のうちは助けてもらえる。おっちょこちょいとか博士とかの日本語のおかげでうまーく特性がカバーされる。が、問題は大人になってからだ。
「頭はいいのに何でそんなこともわからないの?」
「色々知ってるのにどうして考えられないの?」
「普通ならできて当たり前だよ?」
「周りの子はもっとちゃんとしてるよ?」
「君だけだよ?」
 これまではそんなこと言われないのに、高校2〜3年くらいから急激にこういうことを言われはじめる。変わった子は大人になれば普通の人になる。変わっている部分は変わらないがそうラベリングされる。そして、普通になった暁には助ける道理が消失する。苦手が多い子供は「子供」だから助けてもらっていたのであって、「苦手が多い」から助けてもらっていたわけではないのだ。

 そういうわけで、普通じゃないことにキレられても普通に生きていく方法なんて誰も教えてくれない。だから大学、社会人になると生活が成り立たなくなったり、成り立っても二次障害が起きたりする。それでも診断がなければ誰も助けてくれない。合理的配慮は受けられないし周りも納得しない。それはグレーゾーンの人は普通の人だからだ。グレーはシステム上白にカウントされる。

 そもそも、下手をすれば周りは診断があっても助けてくれない。まさか「発達障害」の人が隣で仕事してるとは思わないからだ。みんな見た目は普通だし、仕事ぶりも普通にしか見えないから発達障害だとは思わない。なんとか勇気を振り絞って発達障害を告白しても「『発達障害』?心の病気でしょ?」とか「よくわからないけど流行ってるよね。『発達障害』」とか、そういう言葉が返ってくる。で、二の句は「でも〇〇さんはそうは見えないし平気だよ」。何が平気やはっ倒すぞ。

 失礼。そう、世間からすればグレーゾーンの人どころか発達障害そのものがそういうものなのだ。障害者とは何もできない人であるべきという認識が根付く社会では「発達障害者」は何もできない人(or生活能力が低い天才)たちであり、何かできている人たち(=大学に行けている人、就活で勝ち、引きこもらずに働けている人)は発達障害者ではない。普通の人だ。だから困っていても誰にも助けてもらえない。普通の人は自分の力で努力して困りごとを解決する。支援なんかない。これが現実だと俺は思う。違ったら教えてくれよ。希望とか理想論は抜いてさ。

2身体障害ですらようやく

 でも、別にそういう状況に絶望はしていない。なぜなら地位はいつか向上するから。身体障害者の地位や理解はこの数十年で格段に上がってきた。これまで生まれてすぐに首を締められてきたような子供たちが通常学級で勉強し、普通の大学に行き、就職できる。街で車椅子の人を助けた経験がある、もしくは助けられたことがある人もいるのではないか。まだ「かわいそう」の枠組みは超えられていないのかもしれないが、身体障害者は出来損ないからきちんとした障害になり、今その障害の枠組みを越えようとしている。
 ただ、発達障害を持つ人は普通の人であるという論調は身体障害者が辿ってきたプロセスを無視しているように感じる。そしてそれは社会が障害特性を理解することの妨げにつながるのではないか。

 「発達障害者は普通の人として捉えられるべき」論が社会にどんな影響を及ぼすか。ロジックとしてはこうだ。

 発達障害者は普通の人である
 ↓
 普通の人なら障害ではない
 ↓
 障害ではない人に支援はできない、配慮はいらない

 一般的には障害がない人は支援を受けられない。みんなそうしているし自分で努力しなければいけない。だから、支援が必要なほど困っていても誰も助けてくれない。

 一個飛ばしで議論を進めるとこのような結論になってしまいかねない。なので発達障害者は普通の人だという論調はこういうプロセスを経るべきではないか。
 
 発達障害という言葉を知る
 ↓     ←今この辺じゃない?
 発達障害は普通とは異なる状態であり、障害であると知る
 ↓
 当事者は障害者だし、1から10まで支援しなきゃいけない
 ↓
 発達障害者は支援すればできることが増えると知る/あくまで普通の人であると気づく
 ↓
 だから本人の意思を尊重する/できることは自分でできるようにする
 
みたいな感じ。これを当事者や支援者だけでなく社会全体が飲み込む必要がある。

 このプロセスは彫刻に似ている。彫刻では石膏に当たりをつけて、だんだんと周りを削り、形を彫り出す。それと同じで、やりすぎなぐらい支援をしてもらって、自立できるぞと主張し、だんだんと過剰な支援を削ぎ落とすイメージだ。こうしなくてはいけないと俺が考えるのは、誰かを助けてあげられるほど余裕のある社会じゃないからだ。みんな余裕がないから暇さえあれば人のことを助けなくていい理由を考えている。生活保護のような正当な支援ですら文句をつける人がいるのだ。そこへ「発達障害は普通の人である」という主張が現れたらチャンスだ。じゃあお前ら助けなくていいじゃんとなる。

 今回のツイート、いや、社会に蔓延る発達障害者普通の人論が嫌いなのはこういうふうに必要なステップを無視してゴールの理想だけを声高に主張しているからだ。ただの身内での励まし合いなのかもしれない。そこに文句をつける行為自体が無粋なのかもしれない。が、それが一般の人の目に届いた時、発達障害者は普通の人と変わらない(=だから支援がいるほど困っていない)という誤解を植え付けることになる。

 若干話がぶれるかもしれないが、昨今の発達障害個性論の氾濫により「意識高い人」の間では個性であるという認識が一人歩きし、適当なこと抜かす奴が現れ始めている。筆者の周りにもスペクトラムを誤用する意識高いスキンヘッドがいた。これに似たようなことが今回のような論調から起こるかもしれないのだ。

 身体障害者ですらようやく普通の人と同じ土俵で戦えるかどうかという議論が行えるようになったというのに、昨日今日社会に現れた発達障害が同質の議論を行えるわけがない。まずは社会にその存在を浸透させるのが大事ではないか。メディアが進化し、個々のリテラシーも多少上がった昨今、これまでほど時間はかからないはずだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?