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『葉隠入門』を読んで。現代社会と江戸時代の類似点。

現代社会はある種の幸せと不幸せが混じり合った時代できる。自由は保障され、物に溢れ、多様な生き方が認められつつある。おそらく、日本の歴史に限っていえば、現代はもっとも満たされた社会ではないだろうか。

しかし、社会がそのような状況になりつつある今もなお、人々の心は満たされたとはいえない。凄惨な事件は後を絶たず、持つ者と持たざる者の格差は広がり続けている。多様な価値観が不自由さを引き起こしている例もある。世の中が整備されることは、必ずしも全ての人が幸せになることを意味してはいないのではないだろうか。

このように、人間社会というものは常に「逆説的」なものを含んでいると言える。それを表しているのが山本常朝の『葉隠』の中の「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」という一文である。

山本常朝が『葉隠』を確立した時代は戦乱の世が過ぎた時代だった。町人文化が栄え、人々は平和を謳歌していた。山本常朝はこの時代にあって武士に対し、武士道とは「死ぬ事」と述べる事で、死を選ぶことができるという「自由」があるという逆説を伝えようとしたのではないだろうか。「生」が保障される平和な世の中では、その対極に"確実に"存在する「死」というものが自然と隠されてしまう。三島由紀夫は『葉隠入門』のなかで『葉隠』に対し、こう記している。

「『葉隠』はそういう太平の世相に対して、死という劇薬の調合区を試みたものであった。この薬は、かつて戦国時代には、日常茶飯のうちに乱用されていたものであるが、太平の時代になると、それは劇薬としておそれられ、はばかられていた。山本常朝の着目は、その劇薬の中に人間の精神を病いからいやすところの、有効な劇効を見いだしたことである。」『葉隠入門』P.22より引用

現代社会は、山本常朝が葉隠を記した時代と同じように平和である。自由は保障され、明日死ぬということは滅多にない。もちろん、社会全体にまだまだ不平等が存在し、満たされていない者も多いが、全体を見ればおそらく、平和であると言い切ることができるだろう。

しかし、人間は物を与えられると同時に、それに飽き始めるという習性を持っている。これは理論的に証明されてはいないが、おそらく、これを読む全ての人が共感できると思う。自由を欲し、それを得るために行動し、自由を手に入れたその途端から、自由に対し飽き始めてしまうのだ。それは戦時中に死への衝動が解放され、それに対する反抗、自由の衝動も生まれた一方、戦後には生への衝動が解放され、それに対する服従、死への衝動が満たされなかったことからもわかる。三島は『葉隠入門』でこう述べている。

「わたしは安保闘争もその極端な電位差の一つのあらわれだと思うのである。安保闘争はじつに政治的に複雑な事件で、あれに参加した青年たちは、何か自分の身を挺するものを捜して参加したにすぎず、かならずしもイデオロギーに支配されたり、あるいは自分で安保条約の条文を精密に研究して行動したわけではなかった。彼らは相反する自分の中の衝動、反抗と死の衝動を同時に満たそうとしたのである。」『葉隠入門』P.25より引用

つまり、自由や生死に限らず、日常生活に至る全てのものは逆説を持っているのである。自由を求めての行動が必ずしもそれが幸せを意味しないように、生を求めた行動が必ずしも生へ向かっていないことのように。山本常朝は「武士道といふは、死ぬ事と見付けたり」と述べたのには、その背後に、武士道が死ぬ事ではないという現状があったからなのである。

『葉隠』は何も生を放棄し、死を求めよと言っているわけでもなく、自由を放棄し、服従することを求めているわけでもない。葉隠は日々の生活の中で死を意識することで、生が輝くということを言っているのである。芸術における「memento mori」は「死を意識しろ」という意味の言葉である。死を忘れないことで、生をより良いものにしようとする考えは日本に限ったものではないのである。

だからこそ、今、『葉隠』を読むのである。生死に限らず、全ての行動が逆説を含んでいる。自分が良しとするものが実は異なっていることもあるように、物事は両面を含んでいる。人間は前向きに物事を捉えようとするあまり、それに伴う負担やリスクから目を避けがちであるが、そこにはかならず存在しているのだ。決して消えることはないのである。

令和を迎えた今、日本人が読むべき一冊は『葉隠』なのかもしれない。

『葉隠入門』三島由紀夫 著、新潮社


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