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部屋との別れと、ピンクのバラ

3月は、別れの季節。引越の多い季節だ。

不動産屋に勤めていた頃、たくさんの引っ越しを見送ってきた。人が引っ越してゆく様子は、人それぞれだ。部屋をピカピカに掃除してくれる人もいれば、鍵の引き渡し直前まで荷出ししていて部屋はほこりだらけのまま、という人も多い。

様々な別れの中で、印象に残っている人がいる。

約束の時間に部屋を訪れると、その女性も彼氏と共に部屋に戻ってきたところだった。友人達が、送別会をしてくれていたんだそう。部屋はすっきりと掃除されていて、10年近く住んでいたにも関わらず、目立った傷や汚れはなかった。

室内の備品の確認を終えると、彼女は部屋をぐるりと見まわして、「すみません、部屋を出る前に、写真を撮ってもいいですか?」と聞いてきた。もちろんどうぞ、と答えると、彼女は部屋を四隅から順々に、写真に収めていった。「学生の頃からだから、この部屋に思い出がありすぎて、名残惜しくて。お時間取らせてごめんなさい」そう言いながら写真を撮り続ける彼女のおかげか、白基調のがらんとした部屋が、なんだかあたたかく見えた。

「あ、そうだ」

廊下の先から、彼女の明るいつぶやきが聞こえた。玄関から室内に向かって最後の一枚を撮り終えた彼女は、玄関に置いていた大きな花束、おそらく友人からもらったであろう春色の花束の中から、ピンクのバラを一輪取り出し、私に向かって歩いてきた。

「これ、受け取ってください。お世話になりました」

自分たちが管理してきた部屋が、誰かの毎日を支えていたんだ。何の変哲もないワンルーム、関わりが多かったわけではない。それでもこの部屋は、彼女の人生の中に何かを残してくれたんだな、そう実感出来て、とてもとても幸せな気持ちになった。

鍵の受け渡しを終え、スーツケースをひいて部屋を去っていく彼女と彼氏を、いつもより長く頭を下げて見送った。東京での新生活が、あたたかなものでありますように、新しい部屋が、新しい毎日を支えてくれますように。そう願いながら。濃いピンクのバラの花言葉は、「感謝」だった。

3月は、別れの季節。引越の多い季節だ。

引っ越した先には、新しい生活と新たな出会いが待っている。その新しい毎日が、いつか振り返った時に、思い出と感謝があふれるものでありますように。

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