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いつでも、今の自分にしか書けないもの

いつでも、今の自分にしか書けないものを書いている。

過去の自分にも未来の自分にも書けないし、もちろん他人にも書けないものだ。自分が、自分の意思で言葉にしている限り。

部屋の掃除をしていたら、昔の日記が出てきた。懐かしくなってパラっとめくってしまったが最後、結局終わりまで一気読みしてしまった。

それは社会人2年目から4年目までのもので、新しい仕事や人間関係に直面してはぶちのめされて、それでも何か良かったことを探して前を向いて生きていこうという健気な言葉に溢れていた。

周囲の人たちに憧れている場面も多かった。「○○さんの商談、超かっこいい!」「あんな風になりたい!」なんて、まるで学生の延長かのように羨望のまなざしなの、我ながらかわいいと思ってしまった。周りの人のいいところを見つけようとする姿勢が、憧れの気持ちをそのまま書き記す素直さが、とてもまぶしい。

逆に、失敗したことを受け入れられないまま、綺麗な言葉でまとめている日もあった。そんな文章は、「おまえ、絶対反省してないだろ」「正直、自分のせいじゃないし、とか思ってるだろ」とツッコミたくなるくらい、嘘くさい。事実を受け止めて深く考える余裕がなくて、借り物の言葉で総括している感じが伝わってくる。

今となっては自分の一部として深く刻み込まれている言葉もあれば、もうこんな風には考えないよなぁと賛同できないような言葉もあったりして、同じ自分とは思えないくらい。

今の私には、こんな風に書けないなぁ。

私の中に確実にあったけれど、今はもうないものがそこに記されていて、成長したなぁとちょっと誇らしく思う反面、少し寂しかったりもする。

今の私に書けるのは、今の私が現時点からのものの見方に基づいて、考えていることだけだ。

今の私を言葉にして残しておいたら、木の年輪のように、塗り重なったものが目にみえる。その足跡は、節目節目に後ろを振り返って歩みを確かめながら力にしたいタイプの私にとって、とても大切なお守りになる。

今の私の書けることを残しておきたい、それが誰かのもとに届いて、何か響くことがあれば、なお嬉しい。

そんな想いでまた、noteを書き始めました。

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