20230912 異質なリスク、異質な悪

北海道大学入試国語の過去問(2017)に金森治「リスク論の文化政治学」(『知識の政治学』)からの出題があり、必要にかられて読んだのだが、おもしろい(し、読解力を測るに程よく難しい文章である)。そこでは「リスク論」が批判されているのだが、その批判の肝をまとめれば(問五の解答になる)、原発や遺伝子組み換え食品の是非をめぐる議論を前提にして、「リスク論」が特定の手段を選ばせようという意図を隠して科学的な中立性・普遍性を装い、人間存在のもつ避けられない不確定性としての危険性と、先端技術による特定手段がもつ避けることの許されるべき危険性を、巧みに混淆するといった性質が論じられていた。

なるほど、「リスク論」批判として鋭くアクチュアルで、良い文章を問題にするなぁと感心しつつ、この、「人間存在のもつ避けられない不確定性としての危険性」――本文では「存在論的不確定性」などと呼ばれる――と、「先端技術による特定手段がもつ避けることの許されるべき危険性」のような、本来異質なもの同士を、「危険性」のような一点において同じ基準において比較可能なように装う話法というのは、詐術として一般的なテクニックである。例えば、最近ムカッとしたのが「痴漢は悪だが、被害者側の痴漢を誘うような服装や態度も悪である」といった言説で、これは要するに、「痴漢」の「悪」――暴力であり、人権侵害であり、遺法である――と、「痴漢を誘うような服装や態度」の「悪」――露出は避けよだとか、自己防衛せよといった「社会通念」的道徳とでも言えようか――という異質な「悪」を、あたかも並列可能なものとして述べたものであって、このような詐術的な言説がしかし一定の説得力をもつというのは、装われた「中立」「普遍」の価値の力なのだろう。アリストテレス以来中庸は貴いものだが、その不可能に近しい困難を知り、疑ってかからなければならない。

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