20231218 原稿が消えるということ

知り合いが、描いていた漫画の原稿のデータが消えたと投稿していた。データが消えるというのは、デジタル以前の経験に類似を探せば、どこかに落とす、というのが近しいだろうか。燃えるとか、飛んでいくとか、沈んでいくとか、引ったくられて走り去っていくとか、そうした過程がなく、気づいたらその物はあるべき場所から消えていて、データもまた消えている。道を辿り直すとか、電子的な手段によって復旧を試みるとか、誰かが拾ってくれるとか、実はどこかにコピーがあったとか、そうした可能性はあるのだが、とりあえず、喪失。「いないいないばあ」ではないが、喪失の経験には、不安とも恐怖とも言えぬ、本能に刻まれた根源的な負の感情が伴う。喪失の最たるものは死であることを思えば、原稿を喪うことの喪失感も推して知るべきものである。

「原稿の喪失」といえば、小川洋子の初期のエッセイに「消えた二十枚」という美しい一編がある。短編小説「ドミトリイ」を書いているときにワープロの操作を誤り、二十枚分の原稿を失ったというのだ。彼女はその時の心境を「涙も叫び声も出ない、ただ身体がずん、ずんと、夜の闇の淵にのみ込まれてゆくような絶望」と表現する。そして、結局、記憶を頼りに書き直し、私たちは「ドミトリイ」を読むことができるのだが、「どんなにがんばっても、原稿は十七枚にしかならなかった。三枚分は、どこへ消えてしまったのだろう」。

まるで小川洋子の小説のようなエピソードだ。しかし——その三枚の消えていった深淵に、創作の本質めいたものを感じなくもない。

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