理解を求める虚しさ

観ました。

これは評価していい映画なのか、鑑賞中とても不安になった。

どんな人でも抱え込んでいる鬱積した感情を擽ってしまう映画だ。

一緒に笑い出してしまいそうで、映画の影響を鑑賞中に受けているのも恥ずかしくて、そうやって笑いの発作を起こしているアーサーの恥ずかしさを知って、こうやって登場人物に共感する方法もあるのか、と思った。

アーサーは可哀想な人なのか、不器用な人なのか、それともダークヒーローなのか。わたしは、彼は何も特別ではなく、独りよがりが表面化した結果の人物だと感じた。


彼はとにかくうまくやれていない。見ていて哀しくなるし、こちらが恥ずかしく思えてくるほどで泣きそう。むしろうまくやってなさすぎてイライラしてくる程だった。

うまくやれていない理由は、もうたくさんありそうだが、彼はソーシャルワーカーにも、具体的に報告することをやめていて、とにかく生きることがつらいと言っている。そしてアーサーは誰も僕の話を聞いてくれないと訴えている。誰も興味がないと。

しかし、彼は現状を本当に誰かに打ち明けたことがあっただろうか?


彼は「誰かが、自分を理解してくれる」と強く思いこんでいる。

トーマス・ウェインや憧れのコメディアンに父親を投影し、存在を認められたいと考えている。

母親の面倒を見ていることを生活の精神的な拠り所としている。

そして、だからこそ、父親に認められなかった時、母親に傷つけられていたことを知った時、彼は逃げることしかできなかった。理解されないのではなく、理解してくれない世界が全て悪いのだ。

クライマックスに向かうまでのテレビショーのシーンで、ジョーカーは自分の考えを一気にぶちまける。市民の共感を得てしまいそうな、不満の塊の演説だ。これまで舞台に立つだけで笑いの発作を抑えられなかったアーサーが、ジョーカーとして饒舌に話をする場面は、見ている側としても気持ちが良かった。しかし、彼の憧れであるフランクリンは、正しい言葉で彼を諭す。どう考えてもフランクリンの言っていることが正しい。アーサーは弱い人間で、ジョーカーとしてやっと人の前に立てただけなのだ。ジョーカーはフランクリンからの質問に言葉で返事をしなかった。


ジョークを思いついたと笑うアーサーに、どんなジョークなのかと聞いても笑い飛ばされる。

「理解できない」と。


狂って自由になった化け物に見えるが、理解されなかったと(理解される方法を知らなかった)結果、全て自己を閉ざした状態が出来上がっただけだと思う。

他人に理解されることを求めないから、他人を理解しようとも思わない。

だから平気で人を殺せる。


自分だけ理解されようとすること、わたし自身も自分の辛い気持ちばかり溶かし続けて独りよがりだなと感じることがあったから、いつかアーサーのようになるんじゃないかと怖くなった。というか日本社会はゴッサムシティの一歩手前なんじゃないか?みんな余裕が無いし。

自己を見つめようとしたら死んでしまうわ。

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