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東京旅日記 5/3編

4日ほど東京をダラダラして、中だるみしてきた感じもあったところ。茅場町で目覚めた私はそのまま東京駅のほうに歩いて行った。道中立ち寄ったのがヘッダーのアーティゾン美術館である。

上野の西洋美術館、千葉の川村美術館、栃木のルーシーリー展、箱根の彫刻の森美術館、四国の島嶼にある美術館等、記憶に残っている美術館や展覧会はいくつかあるが、この美術館も間違いなく私の記憶に残り続けるだろう。

最初絵かと思ったらこれは写真。きわめて小さい写真だったが、彼岸を感じさせる構図、手触りなどが完全に絵画のそれだった。

最初の展示は写真。何やら絵画と写真の境目を取り払うことを意図して写真を撮り続けている作家のものらしい。初めて見たが確かにそのような意図は明確に写真に現れており、どれも新鮮なインスピレーションをくれた。ルネサンスからバロック、印象派の手前くらいで写実主義は一通りのピークを迎え、以降は写真の登場も相まって絵画の意味が問われる中、写真は写真で芸術としての価値を模索していた、というような文脈で展示されていたようだ。

細かい説明は文脈も知らないので語れないが、この人の作品は写真というジャンルにとどまっていない感じがした。もともと写真を撮ったり見たりするのはかなり好きだが、自分が目指してる写真がそこにあるような気がした。映写技術や加工技術を競うような写真もあるが、このようにあるがままを白黒やカラーで撮っただけで絵になっている写真が好きだ。

絵とはある種のフレームワークであるという説を述べる人がいる。ただあるがままでは絵にはならない。そこにキャンバスという枠組みを与えることで絵になると。少なくともこれらの写真はそうであると強く思われた。ただの風景として、いやむしろ風景とすら人々が認識しない「そこにあるもの」をレンズという枠組みを通して絵に変換しているようだった。そういえば上野の森美術館でも同じような枠の外をテーマにした絵を描いている人がいた。不思議な縁だ。

セザンヌやモネといった印象派の作家たちが残したかったものについて語りながら、モネの睡蓮を例に絵画における時間差、写真における時間差を提示していた

絵画とは記憶によるものであり、たとえ風景や人物を目の前にしていても、描くその瞬間には描いたものは過去になっている。それを嫌ったのがモネであり、睡蓮は記憶ではなく目の前にあるものをそのまま描こうとした、という趣旨の話が書かれていた。写真においてその時差は極小なものとなるが、写真を撮るという意思のあと、シャッターを押すまでのタイムラグについても考慮されることを意図していたのかもしれない。これらの睡蓮は、モネの描いた睡蓮を、写真に落とし込んだら…というような趣旨で展示されていた。

ミイラの顔面覆いとタイトリングされたもの。なんと1世紀~2世紀の作品らしい。この時から女性の美人像が今の日本におけるものと大差ないことがよくわかる。目が大きく、眉毛が細く、小顔で鼻が高く、唇は薄目。美とはかなりの部分で本能にリンクしているのだろう。
撮られる物と撮る者、奥にあるのは象の写真である。この瞬間において、観測する者も加えてアートな空間の演出が見事であった。写真にすると、どっちがどっちか少しわかりにくくなるようになっているのも、おそらく展示者の意図だろうと思う。

写真の展示に加え、被写体と作家の関係性についての展示が成されていた。撮る者と撮られる者には必ず関係性が存在し、自分の写真において関係性を排除することは難しい(のでそれを排除した方法で展示した)というような趣旨の展示があった。正直よくわからなかったが、ありとあらゆる作品や文章から主体性を排除できない問題というのは普遍的なのだなあと思った

あんまり作家について興味はなく、作品が良ければそれでいいというタイプの人間だが、今回の作品展はどれもこれも刺激的だったので思わず作家名の入ったタイトルロゴを撮っていた。主に気に入ったのは前者の柴田さんという人だ。また機会があったら作品を見てみたい。

テラスから撮った映像。こう見ると工事現場も色んな意図や世界があって面白い

特設展以外は常設の展示だったようだが、これらのいずれも興味深く楽しいものだった。

こういう青と白とか黒と白とかの2分割スタイルの絵画好きになる傾向
今の人たち、特に日本で描きたがる人が多いように思われる絵のジャンル。その意味や意思はこの絵を見てるとよくわかる(と勝手に思っている)
キュビズムの展示ではピカソを展示せず、こちらでピカソの展示があった。その意図は後々分かった。

この美術館の一番感銘を受けたところは、キュビズムの理解を来館者に促しているところだった。実を言うと自分はキュビズムについて言葉上では理解していても、絵画作品として見たときにどうしても理解できていなかった。難しいな~くらいにしか思っていなかった。だがこのアーティゾン美術館で初めてキュビズムの楽しみ方を教えてもらった。

キュビズムの展示で一番最初に目に入ってきたのがこの彫刻だった。最初展示の向きからこちらが正面かと思ったのだが、造形を見ているとどうも頭が混乱する。正確には前なのに前じゃない部分があるというか、船をこいでいるにしても何か肉付きというか腕の構造というか、こんな風になるかな?というような疑問が沸いて消えない。船を漕ぐ為のパドルはどこに繋がってるのか?

ということで背面側に回ってみてもこんな感じ。確かに背面側にきたら背面っぽいけど、やっぱりパドルがない。というか足とくっついてるのか?というような感じ。ここにきて初めて理解したが、3次元空間のものを2次元に落とし込むときに、同じような現象が発生しているのだと気づいたのだ。

XYZの軸がある空間から一つの軸を取っ払ったとき、それはどんなにうまく描こうとも「3次元らしい」ものでしかない。そういう平面の不完全性を技術で保管するのではなく、別の切り口で平面上にさらに落とし込んでみるのがキュビズムの一つの理解で間違いないと思ったのだ。

そのあとにこの絵を見るともう滅茶苦茶分かりやすい。一番わかりやすいのはやはり顔の部分だが、半分は正面から、半分は横から描いているとわかる。どっちがどっちかわかりにくいようにしてあるのもかなりわかりやすい。そしてそれをくっつけた上で一つの物体として構成させている。2次元で3次元を視覚的に表現しようとする手法の一つがキュビズムなんだとここで初めて腑に落ちた。ありがとうアーティゾン美術館。絵画の楽しみ方がまた一つ増えた。ちなみにピカソのキュビズムはここまでわかりやすいものは少ないらしく、そういう意味でここに展示されていなかったんだろうなと思われた。


ピカソの展示は版画もあったが、レンブラントの表現に笑ってしまった。化物みたいに描かれているが、その心は嫉妬なのか、羨望なのか、あるいは。


午後からは三菱の美術館に行ってきた。ここの建物が好きで何回も訪れているのだが、今回は展示の内容があまりにもピンとこなさ過ぎたので内容については割愛。暮れなずむ東京で、1100円くらいのケーキセット食べて宿に向かった。

変なホテル(文字通り)初めて止まったが、不便なく宿泊できたのに驚いた。あとロボットが瞬きしてるのにもちょっとビビった。ちなみに宿にはフリーの漫画スペースがあり、ブルーロックを全巻踏破した。ありがとう変なホテル。

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