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定期的に現れるドーナツの穴

作品はラビットホール。しかし本件はドーナツホール。 皆さんはふと昔見たテレビのワンシーンを思い出すときはあるだろうか。自分はドーナツの穴をモチーフにした作品を見ると、昔タモリが語り部をやっていた、分岐点に立った主人公が、右に行くか左に行くかみたいなドラマっぽい何かを思い出す。 タイトルも知らず、演者も知らない。だがその陳腐な内容は今でも思い出せる。よくある「金か女か」のストーリーだ。金を追う話では、金を追い続けた結果事故だったか事件に巻き込まれて死ぬ。女をとった話では、女

    • 言葉の温度

      飲み会に限った話ではないが、しゃべっている奴の、ウソがへたくそというか、同じような言葉を口にしていても、ニュアンスというかトーンというか、一体何がそういう風に作用するのかはわからないが、温度が下がって、冷たく聞こえることがある。 本人は冷たくしている気は多分ないし、そんな態度でもないけれど、そういう風に聞こえるのは、自意識過剰な部分もあるのかもしれない。この世に私とあなたしかいなければ、違いが判らないから、冷たく聞こえることもないのかもしれない。 喋っている本人がバカで、

      • 吠えたって世界は変わらないけれど

        音楽の話。 なにやら最近の若者は好きな音楽を言わないということが話題らしい。うん、もう「最近の若者は」という語りだしがクソだ。Xのほうで書こうと思ったけど、冷静に長文で書きたかったからこっちで書いているけれど、どうあがいてもクソにしかならない。 とにかく、いろんな原因を言っている人がいた。 サブスクのせい。 音楽マウントのせい。 自己認識のせい。 別に外れているわけではないのだろう。だが冷静になって考えてみたら、私がまだ中学だの高校だったころ、そう20年以上の前から、「

        • 女体好きの女嫌い

          テーマはやはり飲み会。 タイトルの指すところは、概ねヤリたいだけのクソ野郎ということで間違いないだろう。いろんな意見はあるが、日本語をどう好意的に解釈しても、プラスの意味にはならない。 自分はここ最近飲み会にいっていて虚無ばかり感じているが、その虚無を感じる大きな原因の一つが、男らしさと女らしさの絡みにもある。これは昔から感じていることなのだが、女は女で「女らしく」「甘く隙を見せ」「どこまでも本音を見せず、安易に心を許さない」「と思いきや本音のようなものをちらつかせ迫る」

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          飲み会明けの虚無

          「楽しかったなあ、それに比べて今日は」ではない。 「なんでこんなに楽しくないのか、自分は人間的に劣等だからなのか」 という疑問によるものである。 上京して2か月。地元にいたころに比べたら格段に飲み会に出席している。誘われた分は皆勤である。誘う相手は相変わらず居ないが、まあそれも上記の疑問を総合的に誘発している一因であるには間違いない。それはそれとして。 昔からだが、集団の中で笑うのが苦手だ。いや、笑えないという話ではないのだが、笑うべきポイントみたいなものばかりを意識し

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          オッペンハイマーは何を語ったか

          スマホからしか感想を書けないのが非常に残念である。昔手書きの作文が大嫌いだったのを思い出す。それよりはマシだが。 ノーランの語り口は、価値観を揺さぶるところにある。インセプションでは、夢と現実の境目を。インターステラーでは、時空を超えた愛を。テネットでは時間の認識そのものを。 今回のオッペンハイマーについて、テーマは絞られていなかったように思う。インセプションを夢泥棒、インターステラーを宇宙恋慕、テネットを時間警察などと表現することは可能でも、オッペンハイマーは何と形容し

          オッペンハイマーは何を語ったか

          ポルノと嘘が溢れる世界で

          文字、紙、文字、絵、イラスト、写真。様々なところでポルノや嘘は人の興味を掻き立てる。だからこそ様々な媒体で目にする。「売れるため」「見てもらうため」「紙面を埋めるため」様々な接頭語と共に人は売り、「別見たくないけど」「目的は別にあるけど」「期待とは違ったけど」様々な言い訳と共に人は買う。 コミュニケーションは定型化しがちだ。挨拶、礼儀、慣用句。気が付けば同じ言葉や同じ振舞を繰り返してしまう。本来人と人は千差万別、時が違えば場合も違い、必要とされる言葉も違うはずなのに、混濁し

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          アーマードコア6というソシャゲとの差別化を徹底的に意識した作品

          タイトルとは打って変るようであるが、私はソシャゲを数多くプレイしている。グラブルに始まり、ウマ娘、原神、ブルアカ、崩壊スターレイルと、前者二つ以外は今もプレイするくらいソシャゲ脳の人間である。ガチャと周回が大好きといっても過言ではない(周回は意識的には嫌いなはずなのだが、こんだけやってりゃ多分好きなんだろうと思う) ところで最近私はアーマードコア6を全シナリオクリアした。ゲーム内容への感想はタイトルのとおりが一番である。最近のゲームはやれDLCだのガチャだの周回だのといった

          アーマードコア6というソシャゲとの差別化を徹底的に意識した作品

          XになったTwitter

          私が観測する範囲では概ね反応は否定的である。かくいう私も20年弱のTwitterユーザーであり、青い鳥が去ることに一抹の寂しさを覚える。 しかし私はTwitterそのものではないし、Twitterを管理するものではない。従って本件に抵抗することは出来ない。だから今回そういうことを述べたいわけではない。 ありとあらゆるものは変わりゆく。変わらないように見えるものは、そういう風に尽力して変わらぬように見せているだけであって、内側では急速な時流に逆らい続けているのだ。それがいい

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          ジブリアンチが「君たちはどう生きるか」を見てきた件

          件。 結論から言うとさらにアンチになった。終わり。 さて、話をしよう。 私は、ジブリアンチである。なんでアンチかということを説明しておこうと思う。私にとってジブリは「毒を甘いもので包みたがる下手人」であり、「しょっぱい卵焼きが好きな俺に甘い卵焼きを出す」イメージであった。なお偏見100%の食わず嫌いであり、こう思っていないファンの方々が居るのは百も承知である。 本作の感想はといえば。 「毒は入っていないが、ジャム入りの卵焼きが出てきた。」 という感じである。要するに「意

          ジブリアンチが「君たちはどう生きるか」を見てきた件

          ChatのAIの時代と生き方

          以下ChatAIのことをAIと略す。AIに出来ないことはまだ多い。素人の私が考えるだけでも ・0から1を起こす思考 要は人間の入力無しに自立した思考が出来ない。ここではまだ人間との差がある。逆に言えばAIで独立して会話を始めたりプロダクトアウトするようになればもうシンギュラリティは目の前、人類の敗北というような気がする。 ・責任を取ること 事あるごとに「AIはあくまでAIであり、統計的判断を下しているだけです」と断らなければならないほどの脆弱さ。まあこの点については人間も

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          変わらないもの、変わらずにいること

          学生の時分、親によく連れられた中華料理屋が閉店していた。客が居なかったわけではなく、いつ見かけても大体満席で、何やら大将の身体が悪くなったことによる閉店のようだ。アラフォーにもなると、昔に見かけた店や建物が閉店や取り壊しになることは別に珍しくはない。だが何度そのような光景を見かけても、思い出が一つ減るような感覚は消えない。 今日の平日、有給休暇をとれる恵まれた職場、私は同じく昔よく連れられた喫茶店に行ってみることにした。幸いなことに、20年以上前から何も変わらぬ外観で喫茶店

          変わらないもの、変わらずにいること

          言霊理論

          言霊がどうこうという話はともかく、私はイメージできないことは絶対に出来ない派であり、頭の中を脱出することは偶然に成せることはあっても、基本的に難しい派である。 だから自分を縛るような「できない」「やりたくない」ということはなるべく「考えないように」「口に出さないように」している。 このこと自体は前にも書いたのだが、最近また職場で「新型うつ」の病気休暇者が出たため、改めて考えることがあった。なにしろその新型うつの職員は、見た目は極めて健康であり、実際体内指数は健康なのだが、

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          一年の計は元旦に無い

          有るではなく無い。 変わりたければ仕事を新たにせよ、住居を新たにせよ、習慣を新たにせよとある。最も意味がないのは、決意を新たにすることだ。と誰かが言った言葉ほど、耳に痛いものはない。人は頭の中でだけ変わりたがる。今の自分は肯定に値せず、肯定すべき自分の像があっても、それに成る努力は惜しみたがる。古来より人は怠けるものであり、そのような人が変わるためには、頭の中でいくら決意を新たにしても無駄である。 つまり元旦に色々計画するだけでは何も変わりはしないし実らないということだ。

          一年の計は元旦に無い

          時は加速する

          プッチ神父の話ではない。 突然だがマツコデラックスの話。マツコは「1年が5日みたいなもんだった」みたいな話をしていた。5日は言い過ぎだと思うが、1年を振り返って、思い出せる日は何日あるだろうか。5日とは言わずとも、ひと月分の30日思い出せる人は少ないのではないだろうか。 私は割と思い出せるほうだ、その代わり小学生や中学生時代の情景を思い出せと言われると逆に何も思い出せない。多くの人は逆で、小学校や中学校の時の友達や出来事をつい先ほどのことのように話せる人は多いように思う。

          時は加速する

          1000文字

          自分が文章を書くとき、大体文末まで1000文字くらいなら殆ど苦にならず書ける。殆ど脳みそも使っていないような気がする。これは特技でもなんでもないと思っていたのだが、何かしらの試験や、寄稿で簡素に作文せよというときに1200字前後が求められることが多いようで、自分からすればなんだ楽勝だと思っていても、結構苦戦する人も多いようだ。 そもそもあるテーマを与えられた時、1000文字も書けないということが自分からすれば理解できない。自分は公務員をしていて、日々文章を書くような仕事をし

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