無謬という罠
今の時代、とにかく間違うことが嫌われる。正しいことが好かれる。だが、「事実として人は間違える。」
間違えたとき、社会的評価を落とすのか、責任を取らされるのか、失職するのか、命を落とすのか。いろいろあるようだが、何よりみなが思っているのは「間違えるとわかっていたら間違えなければいい」というところだろう。ようは間違えるのは検証、検討、予測の不足であり、努力すればするほど無謬に近づくというある種のイデオロギーが浸透しているところだ。
見出しにある記事を見て私が思ったのは、バカだとか間違っているとかよりも、「そういう風に言わなければ色々な失望や不評を買うから、そういう風に言うしかない」ということだ。そしてその裏には「間違いには必ず原因があり、原因を突き止められないもの、間違いを犯すものは愚かなのだ」という思考の底が見える。
果たして本当にそうなのだろうか。むろん私のこの推測そのものが間違っている可能性はままある。ありとあらゆる言説は自己言及性がある。私はそれから目をそらす気はない。
だがどうだ、相手のことをこき下ろすとき、呼吸をするように理由を並べる現代の政治屋のやること見て、その仕草が自分に帰っていると想像することは変なことだろうか。そう、自業自得といえばそうだ。自分のやったことが自分に返ってくることを恐れているだけなのだ。なんのことはない。
クソが。お前らみたいなクソのせいで、世の中はこんなにも間違えなくなっている。無謬の仮面をつけさせられている。いい加減にしろ。「本当にちゃんと議論したのか?」「想定は足りるのか?」なんていう職場の会話から、音楽の趣味にまで正解を求める世界になっている。
そうだ、これは単なる私の感想だ。私の思いだ。「それってあなたの感想ですよね?」ああそうだ、だがそれを述べてはいけない理由なんてない。お前がそういう風に言うのなら、私はよりクソみたいな駄文を叩きつけてやる。「感想すら言うことができない窮屈な脳みそなんですね」
まあこんな奴らに神輿を担がれているのは本当に同情する。相手を愚かと決めつけて切り捨てる所作そのものが、歴史の上から最も愚かだと思えないようなクズに崇められているのだから、多少クソでも許してやるべきなのかもしれない。そう、人は誰だって間違える。ただそれだけなのだ。だからせめて言葉の上だけでも、もっと他人を許してやるべきなのだ。たとえそれが、わが身を滅ぼすことだとしても。自らの灰が、世界を温かくするのだから。
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