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実習を通じて思い上がったこと

 先日、教育実習を終えた。私の思い上がりは見事に砕かれた。授業なんぞ簡単だとほくそえんでいたのであるが、まったく巧くはいかなかった。殊に生徒と対話ができなかった。休み時間の話ではなく、授業中の話である。私は生徒に発問することを好むのであるが、発問に対する生徒の答えを有意義に活用して授業を展開することが困難であった。生徒と対話し、授業を形作っていく。その単純なコミュニケーションに苦戦した。指導教諭からの有難いアドバイスによって多少は改善したとは思われるものの、課題は山積みである。精進していきたい。

 このように、私は自らの力不足を思い知ったのであるが、ただひとつ、私を思い上がらせたことがある。それは、現場の先生方の専門性の低さである。教育的な方法について言っているのではない。専門科目についての知識についてである。

 私がそう感じた例を一例だけ。『伊勢物語』のある章段の草子地について、教科書には「語り手の言葉」といった旨の註がつけられていた。しかし、私はこの「語り手」という書き方が気に入らなかった。というのも、確かにその部分は「語り手」の評には違いないのであるが、高校生に対して「語り手」という概念を説明することは、やや難解だと思われたからである。

 「語り手」と「作者」とが異なった意味の術語であることは言うまでもない。だが、高校レベルであるなら「語り手」ではなく「作者」として説明すればひとまずよいように思われたし、なにより「語り手」という言い方をして生徒を無闇に混乱させたくなかったのである。そこで、私は「語り手」を「作者」と言い換えてもよいか、と担当教諭に相談した。しかし、どうにも担当教諭は「作者」と「語り手」の違いをよく知らないらしく、私の願いは十二分に伝わらなかった。

 私は困惑した。私は、国語の教師、しかもそれなりのベテランが「作者」と「語り手」の概念上の差異について理解していないようであるとは少しも考え至らなかったからである。もちろん、語り論について、国語教師であれば必ず知っていなければならないものではないだろう。だが、教員が専門科目を教えるにあたって高校生以上の専門性は必要であると思われるから、語り論の初歩的な部分である「語り手」についての知識は、多少は持っているものだと考えていた。私の認識が揺らいだ瞬間である。

 私がかくのごとく考えていたのは、私の周りにいる国語教員は当然語り論を触れているためでもある。しかし、よく考えてみれば、その先生方というのは、大学院にまで進学していたり、論文を書いていたり、学術書を執筆していたりと、アカデミズムに食い込んでいる方々であった。一般的な国語教員、それも公立のそれであれば、そこまでの専門性はないと考えて方が良いのかもしれない。この事実に、私は、私が相対的に専門性をもつということを知り、思い上がることとなった。

 ただ、これで手放しに思い上がれるほど、私も馬鹿ではない。きっと、私も就職をすれば、アカデミズムとは程遠くなるだろう。常に研究していたいが、なかなか簡単にもいくまい。専門性の維持と獲得を脅かされるという危機の季節が実感を伴って迫ってきている。

 それでも、私は、なんとかして自分の専門性を維持できるように努力をせねばと強く想う。難しいことではあろうが、逃げてはならない課題であろう。

 予想外の方向からではあったが、高い専門性を携えた人物になる/であるためにはどうすればよいか、ということを深く考えさせられた教育実習であった。

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