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語り尽くされているだろう言葉の壁の話

デザイン留学ではあったけれど、やっぱりまずはじめに立ちはだかる壁は言語だった。コミュニーケーションが何の障壁もなくとれることがいかに貴重だったかと痛感した。

IELTS5.5を12月にとってから、約8ヶ月あまり英語の勉強もせずロンドンに来てしまった。けれど、正直なんとかなるだろうと思っていた。

しかし、はじめの3ヶ月はもうそれはそれは地獄だった。先生が何言ってるのか分からない、学生同士の会話は余計にわからない。グループディスカッションになってしまえばもう、発言する勇気の前にまず、いま何が議題かもわからない。宿題が何なのかもよくわからない。よく来れたな自分、と恐ろしかった。聞き取れない・話せない、というストレスは想像を絶するもので、日本の友人から「英語喋れるの?」という何気ない質問がくるたびに、スマホを叩きつけたくなる衝動に駆られていた。

そもそも、英語が話せる、って何なのだろうか。

日本にいた時は、外国人に道を聞かれて、英語が瞬時に出れば「英語を話せる人」だった。しかし、実際に英語圏の国に来てしまったいま、瞬時に英語が出てきてくれないと生活が不便でならない。

通っていたグラフィックデザインのクラスは35人ほどで、40%くらいは現地の子たちだった。つまりネイティブ。はじめは本当に冗談抜きで、1割も言ってることがわからなかった。のこりは留学生だけれど、現地の子たちと対等に英語を話せるレベルの子たちがほとんどだった。ちなみに、わたしはクラスで下から2番くらいで話せなかった。

英語を聞き取れない・話せないとなると、ただの空気になってしまう。英語を普通に話している4つも下の子たちが、見かけも相まって大人びて見えるし、口を開いても赤ちゃんみたいな英語しか話せない自分が惨めでならない。日本で、勉強においても、スポーツや人間関係においても、こんなに底辺を歩いたことがなくて焦りがすごかった。3ヶ月も経つと、プライドのプの字も消えてなくなった。

スーパーの店員との会話、バスや電車の中、友達との会話、授業中、外に出ているあいだ、常にヒヤヒヤしている。トライアンドエラーなんだ、と言い聞かせて、ダサい自分を真正面から何度も受け止め続けた。

グループディスカッションや、チューター(先生)との会話でうまく言いたいことを伝えられなくて、相手の言ってることを理解できなくて、ハテナを抱えたままその日のクラスを終えるたびに、「英語話せる」なんてお願いだからたった7文字でおさめないでくれ、とやけくそでYouTubeの英語関連のチャンネルを見まくった。

口は確かに赤ちゃんなのだけど、残念ながら本当の赤ちゃんではない。だから悲しいことに、生きているだけで自然と話せるようになることはない。大人になってから新しく言語を身につけるには、1度赤ちゃん返りする勇気と覚悟、そしてそこから這い上がるだけの精神力と努力がいるのだなと思い知った。

英語が話せなくて自分という人間が弱くなったことから、コミュニケーション能力すら失くしてしまった、いや、そもそも無かったのかもしれないとすら思っていた。日頃のストレスもあり、はじめの3ヶ月の休日は1人でいないと自分を保てないような気がしたし、寝て過ごすことも多かった。

それが4ヶ月目に差し掛かるころ、ふしぎと突然、イタリアの子と友達になってたくさん話すようになったり、その子とパブに行ったり、新しい友達が増えたり、前のクラスでその子のアクセントが聞き取れなくてちゃんと話したことなかった子と仲良くなったりした。話す機会・人が増えて、急激に上達していった。それからやっと、前のように誰かをどこかに誘う、ということをしたいと思えるようになった。わたしという人間が復活した気がした。

5ヶ月目の1月頃から、何度か話したことある相手ならほとんど聞き取れるようになってきた。ここら辺でやっと、その単語なに?とか、今言ったことってどういうこと?と躊躇なく聞けるようになった。それまでは、そもそも何がわからないかもわからないことも多かった。

同じころ、わたしよりはるかに英語ができるし不便なんてなさそうだったイタリア人の友人とエッセイを書いていた時。「ネイティブの子たちですら手こずってるのに、ほかの膨大な課題と並行でこのエッセイなんて留学生の私にはキツイ」ともらしているのを聞いて、すごく嬉しかったのを覚えている。やっぱりなんでも、自分だけということは全くと言っていいほど無い。

しかし、「英語話せる」とたった7文字で軽くおさめられるようになるには、あとどれくらいかかるのだろうか。

帰国してすぐの税関で、全くストレスなく日本語で、そして23歳相応の話口調で会話ができたときの爽快感ったらない。

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