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いきものと暮らすこと

実家は近所から猫屋敷と呼ばれる程で、加えて犬もいて亀もいて金魚もいた。
長崎から山口の大学に進学したのに、1人暮らしの家にはなぜか猫の毛が落ちていた。
長崎から持ってきた高校時代のジャージにたくさん着いていたのだ。

何度も寿命を経験して、
たくさんお別れをしてきたから、いつも終わりを逆算していきものと接してしまう。

人相手にはそんなこと思わないのに、
いきものに対して思うのは圧倒的に寿命の長さに差があって、自分より先にいなくなることが分かっているから。

分かっていながらペットとして迎えて、
いつかの終わりにさみしくなって、泣いてお別れするのを馬鹿馬鹿しくも思う。


わたしの母は動物を放っておけない人だった。
ベランダに来た迷い猫にパンをあげたのが猫屋敷のはじまり。
そこからなぜか猫と縁が出来てしまって、
大雨の次の日に散歩に行けば茂みでぼろぼろに倒れた子猫と出会ったし、
猫屋敷と聞きつけた近所の人が、たくさん産まれたので一匹もらってくれと夜中に押しかけてきた。

放っておけない母はいきつけの動物病院の先生にまたですか?と苦笑いされていた。

ペットを迎えることは、
無償の愛を注ぎ続けることのはじまり。

見返りなんて無いと思っている。
かわいさとか癒しとか受け取ってはいるけど、
いきものはいきもの然として生きているだけで与えているつもりなんてない。

特にわたしはいまトカゲとカエルを飼っているけど、なつきはしないいきものだ。
自動給餌器くらいに思われているだろう。

たまにトカゲを手に乗せて、爪がチクチクと刺さる感覚を愛しく思う。
愛おしい気持ちと、寂しくなって馬鹿馬鹿しい気持ちを同じだけ感じる。
わたしの手はすごく小さい方だ。
こんな小さい手に乗ってしまうくらい小さないきものだ。
それなのにずっしりとして体重以上の重みを感じてしまう。

馬鹿馬鹿しいのにどうしていきものと暮らすのか。
トカゲの見た目が好きでかわいいと思うから、カエルが鳴いてたら癒されるから。
ずっとペットと暮らしていたから、いないことがすごく違和感だから。
いきもの然として生きている姿が好きだから。

エゴだと分かっているから、
少しでも幸せに長生きして欲しい。
5年や10年の寿命で最大限に生きて欲しい。

そしていつもペットの話しかしないつまんない人にでもなろうかな。

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