泡日記2

噴水のそばの小高い丘の上からとぎれとぎれに楽器の音色が聞こえてくる。管楽器と思うけどなんだろう。知っている楽器の名前と音を思い出そうとしてみるけれど、ふわっとしていて分からない。とぅるるるる、とぅるるるる、音階の練習か指鳴らしだろうか。この場所を選んで吹いてみているけれど、自信がないような、心もとなさげな音を出している。同じ時間に来たことはあるけれど今まで気が付かなかったから、もしかしたらこの日が初めてなのかもしれない。
がんばって、がんばって。
下からは姿の見えない音の主に向かって、そんなことを思ってみる。ここに楽器を携えて来ただけで今日のあなたは十分に素晴らしい。

明日の早朝の新幹線で神戸に向かう。駅で弟と落ち合ってから車で四国の母の元へ向かうことになっている。土曜だからきっと席は混んでいるよ、もう旅行も解禁だし、桜なんかも咲き始めている。富士山側は取れなかったけどと言いながら夫が手渡してくれた新幹線の切符が、携帯のポケットに挟んである。
母が入院したと連絡が来たのが昨日で、弟がケアマネさんや医師から電話で受けた説明からいくつか重要な選択をした。電話ではそれは決められない、行くまで待ってほしいと申し出てみたけれど、それが許されないほど状況は切迫していた。電話越しに何度も弟と話し合い、たくさん泣いて、私達が決めたのなら、きっと許してくれるやろうねと決断した。終末期治療を選んだ娘と息子で、明日母に会いに行く。

息子の学校の事、犬に与える抗がん剤の事などを夫とアプリで共有しなくては。暴露しないように、手袋の使い方と薬に触れる順番をもう一度確認しておこう。午後には夫の実家に事情を説明しに行って、それから掃除と洗濯と、買い物も。リュック一つに荷物をまとめたいから自分の着替えは最低限にして、でもPCは念のため持って行った方がいい。現金を降ろして、それから…。

右手に持った犬の引綱がぴんと張って、犬が噴水の脇で昼寝をしている鴨にちょっかいを出そうとしていることに気づく。そうね、明日と明後日はお散歩が短くなるかもしれないから、今日は君の好きな時間を過ごそう。もう一周多く公園をまわろう。匂いもたっぷり嗅げばいい、鴨はだめ、鳩もだめだよ。
数年前に母を東京に呼んだときに、この噴水を囲むどこかのベンチに座ったのだ。どこのベンチだったかな。ツツジが咲いている季節だったから、あの丘の斜面に桃色と白と赤紫の花が咲いていたはずだ。どんな話をしたのかは覚えていないけど、並んで座って眺めたように思う。ここを一緒に歩いたよね。私の家にいると遠慮してどこかよそよそしく落ち着かなくて、外に連れ出した方がリラックスしていたように思う。健脚だけは自慢で、私が結婚する前に、1年半こっちで一緒に暮らした時は、有楽町から当時住んでいた家までの5キロほどを楽々歩いていた。はとバスならぬはと歩き。私のお下がりのスニーカーがちょうどいいと言っていた。

明日はきっと怒涛の一日になるだろうなぁ。自分の感情がどう振れるのかが分からないから、やっぱり飛行機じゃなくて新幹線の時間で近づいていくのがいいだろう。私は父に会えるだろうか。弟はどうするつもりだろう。いろんな種類の心構えを準備した方がいいけれど、でもそれはその時々でどう転ぶか分からない。

余分の一周を終えて再び噴水の側までもどってくると、音の切れ端が風にのって聞こえてきた。さっきの管楽器の人がまだ丘の上にいるようだった。
音階の練習は終わってなにかの曲を練習しているようだ。途切れながら聞こえてくる旋律に耳をかたむけていると、耳馴染みある一節に出くわして思わず足を止めた。ああこんな…。こんなの聞こえてきたら泣いてしまう。右と左の目から涙がはらはらこぼれ落ちる。
カヴァレリア・ルスティカーナ間奏曲。
美しいこの歌劇のストーリーを無学な私は知らない。でも今この時にこの旋律が空から降ってきたことに、心の弦がびりびり反応している。

少し迷って、ゆっくり丘にのぼる階段をあがっていく。邪魔はしないから音の元へ、これを奏でている音の近くへ。犬といっしょに上がって行く。

丘にあがると植栽の方をむいて少女がひとり座って、演奏していた。少女、ではないかもしれないけれど、人が来た事が自信なさげな音の主の集中をもっと削いでいるだろうから、ほんの一瞬その姿を留めたらもう良くて、もちろん話しかけるなどしたくなくて、ただありがとうという気持ちを置いて、反対の斜面から丘を下って下りていく。チラと見た楽器は金色で、サックスだったのだなと分かってそれだけでもう十分だった。
幾度もつっかえる演奏を、わたしは彼女の視界から外れた斜面の土留めに座ってしばらく聴いていた。もう少しここで聞かせてくださいね。あなたの音楽をいま、ありがとう。


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