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楽しい逢瀬のあとの、やるせない別れの時 (閑吟集23)


「一夜馴れたが 名残惜しさに出でて見たれば 沖中に 舟の速さよ 霧の深さよ」

想い人と過ごした時間が1時間でも1日でも、
その時間が終わるときの名残惜しさ、やるせなさの重さは変わらない。

むしろ一緒に過ごした時間が長い方が、より別れ難くなるもので、
心も体も満ち足りて不満など微塵もないはずなのに、いざ別れの時がくれば、まるで5分しか会っていなかったかのような寂しさに襲われてしまう。

おいしいご馳走を食べて満腹になってレストランを出るような気持ちには決してなれない。

たっぷり充電したはずなのに、想い人の姿が雑踏に消えたとき、あるいは乗った電車が遠ざかっていってしまったとき、その充電はあまりにも簡単に空っぽになってしまう。

なんとも恋というものはあふれるほどの幸福感とともに、やるせない副作用をもたらすもの。

心の潤いはすぐに枯渇し、さらなるぬくもりを恋焦がれてしまう。

だからこそ、会う度にその別れの時を今生のお別れかもしれないと想う気持ちがにじみ出るのだろうか。

「一夜馴れたが 名残惜しさに出でて見たれば 沖中に 舟の速さよ 霧の深さよ」(閑吟集)

一夜たっぷりとあなたと馴れ親しむ時間を過ごしたのに、名残惜しくってあなたを見送りに外に出たというのに、沖を進む舟のなんと早いことでしょうか、霧が深いことでしょうか。

一夜というとっても長い時間に比べたら、想い人が視界から消えてゆく時間、たとえば乗っている電車の影を追ったところで数秒の差にしかすぎないというのに、なぜかもっとゆっくり行って欲しいと願ってしまう。

それならば、のんびりと遠ざかっていくのならよいのか。

「名残惜しさに出でて見れば 山中に 笠の尖り(とがり)ばかりが ほのかに見え候」(閑吟集)

名残惜しくてあなたを見送りに外に出れば、山の道をあなたのかぶった笠の先がほのかに見えるばかり。

かといってこんなふうに、ゆっくりゆっくりと見えそうで見えない人の影が遠ざかっていくのを眺めているのもやるせない。

じゃあ、どうしたらいい?

どうにもしなくていい。

またきっとちゃんと会えて、しっかり抱き合えることを信じていればいい。

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