青葉

クワロマンティック・アセクシャルのひとりごと。

青葉

クワロマンティック・アセクシャルのひとりごと。

最近の記事

虚ろと踊る

自分の人生を自分で生きている感じがしないときがある。頭の中でテレビゲームをしている人がいて、その人が操作しているのは私の視点であり人生である。私はその人の隣で画面をボーッと見ている。そんなイメージ。誰かが操作している自分を眺めている心地。忘れた頃にひょいと顔を出す感覚。 小さい頃、自分以外は人間ではないんじゃないかと思ったことがある。母に「本当に人間?」と聞いた記憶がある。前後の文脈を知らない母からしてみれば謎だったと思う。しかし彼の人の答えが私を安心させてくれたことは覚え

    • 手と効率

      公衆電話で電話していた頃からどれくらい経っただろう。ガラケーが現れてスマホになり、SNSで友人をつくり連絡を取り合う昨今、そんな時代がはるか昔に思える。けれどたかだか数十年である。 最近思うことは、 ①「手」を離れると、遠くなる。 ②効率化されると、さらに効率を求めるようになる。 ①の手は物理的な手だ。身体といってもいい。通信が発達していなかった頃は、指切りで約束をし、手紙を書き、紙の本で調べていた。時間がかかる分、余白があった。想像し、思いを馳せる余地があった。紙風船で

      • 年初め

        年末年始をゆっくり過ごせたことは、数える程しか無い。大体が実家に帰省し、地元の友人と会うか、家の手伝いで何やかんやするか、だ。 ここで問題になるのが、自分の時間の確保が難しいこと。私は自分の時間が少ないと調子を崩すタイプなので、中々に重要なのだ。しかし、有難いことにお誘いが多い。このタイミングで会わねばまた1年後か、或いは縁が遠くなってしまう友人からのお誘い。この日は友人に会わない日、というのを設けても、当日滑り込みで予定が入ったりする。有難いことなのだが、今回ばかりは予定を

        • あえて名付けない

          様々な感情、関係性につく名前。愛。 相手を思いやり、尊重し、適切な距離感でもって対話を重ねていく。それは間違いなく尊い行為だ。しかしそういった相手が”特別か”と聞かれると難しい。特別だが、特別という名称はつけられない。 何故か。 特別と名付けてしまうことで、私の中で異物になるからだ。 「相手を思いやり、尊重し、適切な距離感でもって対話を重ねていく」ことはしたい。でもその相手に特別な名称(例えばパートナー等)をつけると、同時に私にもつけられる。それは私にとって仕事・役職になって

        虚ろと踊る

          私の物語

          全てのものには物語がある。 物語を持たざるを得ないと言ってもいいかもしれない。 ただそこに在るだけで物語は生じ、綴られていく。 幼い頃に、自分の中に物語を作ろうとした経験はあるだろうか。 オリジナルのキャラクターをつくり、その性格や生活を妄想し、或いは冒険をさせる。 そう言った遊びが好きだった。 そして、それは今なお偶に顔を出す。 彼らは文字通り世界を股に掛け、未だに物語を紡いでいる。 彼らはきっと私の分身であり、望みそのものであり、見たくないものの一部でもあった。 私が生

          私の物語

          立ち止まる

          先日、人生相談のような感じで話を聞いた。 これまでも同じようなことは何度もあった。 ただ聞いて、思ったことを伝える。 自分にとってはたったそれだけの事だが、第三者が客観的に...というか俯瞰して見たままを伝えるというのは、中々に気づきがあるらしかった。 他人は自分ではない。 話すときに、自分の話をした方がすんなり説明できるときがある。そういう時でも、なるべく「自分の場合は」と付けるようにしている。 これは自戒でもある。 自分の考えが正しい・(自分の場合はこれで解決したのだか

          立ち止まる

          休むか太るか

          「休職というのも、選択肢としてありますが…」と医師が説明を始める。 なるべくマイルドな表現をしてくれているのが伝わってきた。 選択肢は2つ。 休職するか、薬を増やして様子見するかだ。 季節の変わり目というのは厄介だ。 とりわけ夏から冬に移行する秋に調子を崩しやすい。 これはもう20年前からそうなので、そういうものだと自分も受け入れている。 ただ、「9〜12月の何処かに来る」という事だけが明確で、「いつ」「どの程度の不調が」「どのくらい続くのか」は、なってみないと分からない。

          休むか太るか

          物が多い

          私の部屋には物が多い。 最近はそれこそ足の踏み場も無い。 しかし己は「踏んで大丈夫な所」を心得ているので、滞りなく生活できてしまう。 物を片付けるという行為が苦手だ。 物に囲まれている方が落ち着く性分だから、というのもあるだろう。 頂き物も割とあるので、その辺は単純に捨てたくないと思ってしまう。 引越しの度に断捨離はしてきたが、それでも捨てられないもの達がいる。 主に本、手紙、書類、作品だ。自分の物語の一部を構成するものたち。 あとは百舌鳥の様なところがあるので、食べ物

          物が多い

          贈りたがり

          私はどちらかというと贈りたがりだ。 つい小さなプレゼントとかしてしまうタイプ。 単純に、喜んでくれたら嬉しいなと思っての行動だが、たまに行き過ぎてしまうので、これも時々気をつけねばと気を張っている。 私はおばあちゃん子であった。 そして、祖母は孫に色々と買ってくるタイプのおばあちゃんであった。私が好きなお菓子を毎回買っておいてくれる。歳をとっても同じものを毎回だ。受け取る側として、ありがとうという気持ちと、もういいよという気持ち、どっちも経験はある(伝えもした)。そのため、

          贈りたがり

          【私もアセクシャルです】Case:青葉

          「雑誌アセクシャルアンソロ企画」 ・テーマ:私もアセクシャルです 私は現在、クアロマンティック・アセクシャルを自認している。 自分の場合は、家庭環境(性自認?)・性分等が複合的に作用してこの自認に至っていると解釈している。よって、広く浅く長々と書いていく。 あくまで私個人の場合として。 ※なるべくマイルドな表現をしているが、性・恋愛という単語が無理な方は読むのをオススメしない。 尚、現状世の中では恋愛と性愛が地続きになっていると感じているため、アセクシャルだけでなくクワ

          【私もアセクシャルです】Case:青葉