見出し画像

「怪異喰い(イカモノグイ)」第1話


 憎しみ、恨み、いらだち、怒り、妬み、自己嫌悪。人々が無意識のうちに吐き出す淀んだ感情が、”人でなし”を作り上げる。
 ”怪異イカモノ”。それは人より出でて人に非ず――。

***

「はっ……はぁっ、はぁっ……!」

 いい加減、走り疲れのせいで両足と喉が痛くなってくる頃合いだった。
 ここまでどれほどの距離を走ったか。自分は今どこを走っているのか。閑静な住宅街であることに間違いはなさそうだが――思い返す暇も把握する余裕も、今の私はまったく持ち合わせていなかった。
 就活用のリクルートバッグを抱えて、パンプスを履きながらここまで全力疾走する日が来るだなんて思ってもみなかった。小学中学高校大学と陸上部に所属していたことが、まさかこんなところで役に立つとは。人生何があるか分かったものではない。

(いや考えてる場合か――ッ!!)

 さて、私が今置かれているこの状況を説明しておかなければならないだろう。一介の就活生である私、呉羽水月 くれはみずきが、何故顔面蒼白の今にも死にそうな顔をしながら足を止めずに走り続けているかというと。

『ギイイイイイイイイイイイイッ!!!』
「っ……!」

 全力で追われているのである。現在進行形で、無数の黒い手をこちらに伸ばしてくる化け物――”怪異”に。
 聞くに堪えない叫び声。それは振り返って距離を確認するのも憚られる、おぞましい見た目をした化け物だった。どこが頭かも分からない黒々とした図体。そのど真ん中で、大口が歯を剥き出して開閉している。体液のようなものをまき散らしながらこちらに突進してくる恐怖といったら――。
 魔手が背中をかすめる気配がすぐそこに感じられる。自分の足が止まった瞬間が己の最期になることだけは、考えなくてもすぐに理解できた。

(あの子から少しでも離れないと……、いつコイツの標的が向こうに戻るか、分からない……!)

 大企業の面接が思った以上に上手くいったから、上機嫌で鼻唄を歌いながら帰路に就いていたら、今にもこの怪異に取って食われそうになっている少女の姿が目に飛び込んできた。
 え、何これ。
 思考が凍りついたのは一瞬のこと。
 放っておける――はずがなかった。
 気づいた時には、足元に転がっていた石を怪異に向かって思いきり投げつけていたし、気づいた時には「こっちば見れ! こん馬鹿ッ!!」と腹の底から叫んでいた。『ギャッ』という悲鳴と、化け物の身体がこちらに向くのと、私が呆然としている少女に向かって「逃げて!」とさらに叫んだのがほぼ同時だった。
 石ころぶつけられるのって化け物でも痛いんだ……と、脳の中の嫌に冷静な部分が漠然とそう考えたのは、この際置いておくことにする。
 私が囮を引き受けたのだ。私があの子を助けると決めたのだ。やらなければならないことがある。覚悟を決めなければならないことがある。
 視界に映ったのは九十度の曲がり角。走るスピードを一切緩めないまま左に曲がる。体感およそ一秒後、凄まじい音と共に、怪異がコンクリートの壁に突っ込んだ。

「よっ……し……!」

 パラパラと、壁の欠片が地面に落ちる。衝撃で潰れたらしい体の形を整えようと、化け物は随分もたついているようだった。流動性があるらしい体をぐにゅぐにゅと歪めながら、何とか崩れたコンクリートの山から抜け出そうとしている。その隙に怪異から一定の距離を置き、そこで初めて、私はゆっくりと足を止めた。
 大きく大きく、収縮し切っていた肺を今一度膨らませるように息を吸う。呼吸を整える。胸に手を当て、気持ちを、心を、精神を落ち着かせる。
 スーツの懐に手を突っ込む。指と指の間に挟んだのは、触れ慣れたいつもの感触。複雑な文字と模様が施された、長方形の紙きれ――。
 俗に、”護符”と呼ばれるものだ。
 それを顔の前に構える。ぽっ、と青白い小さな炎が紙に灯る。

(行け。やれ――!!)

 私がやらずに誰がやる。今これを出来るのは、今この場で、私しかいないんだ。
 我ながら馬鹿だとは思う。しかし後悔の念は欠片もなかった。
 両足に力を籠め、怪異に向かって地面を蹴ろうと膝を曲げたその瞬間――。

「へぇ、面白いね君」
「!?」

 突如として私のすぐ後ろに現れた、人の気配。
 右肩に、何者かの手がぽんと置かれた。そのままくいっと後ろに身体を引っ張られ、立っていた場所を入れ替えられる。咄嗟に言葉が出てこなかった。

「面白いけど、死ぬほど馬鹿だ。これ一枚で特攻キメようとしたの? 自殺行為だよ、一般人が首突っ込んで無事でいられるはずないのに」
「え……。あれっ嘘、いつの間に!?」

 きつい言葉の割に、その顔には薄い笑みが浮かんでいた。
 ちらりとこちらを見やったのは、痩身の若い男性。その手に、私が持っていたはずの護符が挟められている。

「まいいや。話はあとでゆっくり聞く。これ借りるよ」
「は!? ちょ待っ――」

 その続きが、言葉になることはなかった。
 あまりにも現実味のない光景に、今度こそ思考が凍りついてしまったから。
 男性がすらりと背中から抜いたのは、長い刀身を持つ刀。
 こちらが何かを言うより、短い息を吐き出した彼が、標的に向かって踏み込む方が早かった。
 一蹴りで間合いを詰め、とうに体勢を整えこちらに狙いを定めていた化け物の上方へ身を躍らせる。それを追うように、怒り狂った化け物の無数の手が伸ばされる。しかし男性は空中でその攻撃を全て躱し切り、手に持っていた護符を叩きつけた。

『ア゛ア゛アアアアアッッッ』
「チェックメイト」

 淡々とした一言だった。
 護符が青い炎に包まれ、それが黒い巨体に燃え移る。苦しそうに動きを止めた化け物を、一切の躊躇なく、男性は刀で両断した。
 べしゃり、という嫌な音が響く。上と下。真横に切られた怪異の体が地面に崩れ落ちる。刀身で風を切り、男性は刀を鞘に納めた。
 チン、という小気味のいい音が私の耳にも届いた。
 がしがしと頭をかき、男性は小さく息を吐いた。
 ――終わった、のだろうか。
 一気に体から力が抜けて、そのまま地べたに座り込む。何か言おうと、私は口を開こうとした。しかし男性はこちらを見ることはせず、

「え」

 化け物の残骸に、左腕を突っ込んだ。
 はく、と思わず息が止まった。
 柔らかい肉をかき混ぜるような、ぐちゅ、ぐちゃりという音。特に気にすることもなく、さも当たり前のような顔をして、男性は目当てのものを探り当てた様だった。その手に握られたものを見て、それが何かを認識して、――そして私は、自分の目を疑った。
 赤黒く脈打つ肉塊。恐らくそれは、”心臓”だったのだと思う。
 男性は、それをいとも簡単に“噛みちぎった”。
 …………。
 噛み、ちぎった……??

「あ゛ー……。胃ィきっつ……」
「……エ゛」

 苦々しい顔をして、ぼそっと呟いたこの人。
 顔に付着した、血──のようなものを雑に拭った、この男。

 今、化け物の心臓、食べちゃったんですけど。

 …………。

 ……えぇ……。

「ええええええええっ!?」

 十字路のど真ん中。私の声がぐわんと響き渡った。

***

 住宅街から場所は変わって、私が今座っているのは古びたカフェのカウンター席である。
 レトロなランプがそこかしこにいくつも吊り下げられており、橙色の灯りが目に優しい。ほのかなコーヒーの香りが店内を包んでいて、こんな状況じゃなければ日々の疲れをゆっくり癒せる穴場スポットを見つけられた! と私は万々歳だっただろう。
 そう、こんな状況──、

「やっぱり口に入れるのは甘いものに限るな……。甘味になら俺人生捧げていいって思えるよ心の底から。人生救われてるよマジで。マスター最高。糖分最高ー」

──先程の男性が自分のすぐ隣に座っていて、カウンターテーブルを埋め尽くす数のパフェだのケーキだのアイスだのを頬張っている状況──でなければの話だが。
 男性の言葉に、食器を拭いていたカフェのマスターは無言で小さく会釈した。

「呉羽はさっきからコーヒーしか啜ってないけどいいの? ここのエクレア、冗談抜きで都内一美味いよ」
「え、遠慮しておきます……」

 何となく男性の方を向くのが憚られて、私は自分の目の前に置かれたコーヒーカップに焦点を合わせていた。
 死にかけながら怪異に追いかけられて、その怪異を一刀両断にするような人と出くわして、あまつさえその人が怪異の心臓を食べてしまったのを見た直後である。とてもじゃないがエクレアを食べる気にはなれなかった。

「そう? なら君の分も俺が食べとくネ。――で、その女の子が怪異に襲われそうになっていたのを偶然見つけて、そのまま君が囮を引き受けたって訳か」
「はい……。どうしても放っておけなくて。気づいたら身体が勝手に」
「なるほど」

 男性は、かれこれ五個目のエクレア、最後の一欠片にフォークを突き刺し口に運んだ。もぐ、と咀嚼し、視線と共にそのままフォークをこちらに向ける。

「君、結構な頻度で周りに”馬鹿”って言われるでしょ」
「くぅっ……」

 呻いて全力で頭を抱える。
 ぐうの音も出ません。
 そのままの体勢で、私はくわっと目を見開き一気に捲し立てた。

「考えなしに要らんことに首を突っ込んで、場をかき乱すだけかき乱して結局最後には何がしたかったのか分からなくなって終わるような、それも悪意は一切なく真っ当な善意を動力にやらかすものだからこちらも責めるに責め切れないある意味一番タチの悪い馬鹿――とは、ええ、今まで方々から言われてきましたねはい……」
「あっはは、君自覚してるタイプね」

 それはまた気の毒に、と、大して気の毒に思ってなさそうな声でそう言われる。私はがっくりと肩を落とした。男性は、今度は特大パフェをつつきながら、お構いなしに話を続ける。

「まったく、驚いたよ。何の考えもなしに怪異の囮を買って出るわ、護符一枚で特攻仕掛けようとするわ、こんなご時世に中々にエッジの効いたことする輩もいるもんだってね。あそうそう、君が助けようとした子はそのまま無事に家に帰れたみたいだよ」
「! 本当ですか!?」
「同僚が見届けてる。間違いない」
「よ、良かった……」

 がちがちに緊張していた身体が、その言葉に少しだけほぐれた気がした。
 ほっと胸を撫で下ろす。あの子が無事だったなら、私がどれだけ危険な目にあったとしてもそれは些細なことだ。

「子供が無事なら、少なくとも今回は、君がした馬鹿な真似は無駄にはならなかったってことだね。結構なことじゃない」
「……!」

 くつり、と喉の奥を鳴らすように、男性は笑ったようだった。
 無駄じゃなかった。その一言が、妙にすとんと胸に落ちた。

「俺は馬鹿は嫌いだけど――そうだな、呉羽みたいなタイプは嫌いじゃないよ」
「ぇあ、あ、ありがとうございます……?」
「ああ。傍から見てると腹が捩れるほど面白いタイプだ。うん、嫌いじゃない。むしろ好ましいね、動物園の動物を見ているようで楽しいよ」
「……」

 へへへ、そうですかね……、と言う時の照れ笑いを浮かべたまま、私はぴしりと固まった。
 数秒経過。

「ん? 待ってください? 一瞬褒め言葉かと思いましたけどもしかしなくてもそれ馬鹿にしてません? え? 私今普通に馬鹿にされましたよね!?」
「たまにいるよねぇ、他人のことしか頭になくて、自分の損得そっちのけで考えるより先に体が動くヤツ。本当の意味でそうなる人間って絶滅危惧種くらいレアだと思うけど。……なるほど”呉羽水月”か」
「ちょ、え、まさかとは思いますけど検索かけてませんよね? 私の名前レッドデータブックとかに載ってませんからね!?」

 たぷたぷ、とスマホをいじり出した男性に対し、何なんだこの人……、と顔を引きつらせるのもそこそこに。
 私は残っていたコーヒーをぐいっと飲み干し、改めて男性に向き直った。

「それでその……。改めて、助けてくれてありがとうございました」

 深く頭を下げる。彼が私を止めていなければ、この命、どうなっていたか。
 いじっていたスマホを再び尻ポケットに戻し、男性はひらりと手を振った。

「気にしなくていいよ。俺もあれが仕事だからね」
「仕事……。あ、ならあなたは、」
「そ。怪異討伐が職業の者デース」
「なるほど~」

 表情を変えないままVを作った男性に、私はぽんと拳を打った。あんな化け物を一撃で倒したのである。当然と言えば当然だった。
 私を追いかけていた化け物は、総称を”怪異イカモノ”と言う。
 怪異とは、どこにもいないはずの存在であり、同時にどこにでもいる存在である。人のあらゆる感情の掃き溜めで自然現象的に発生し、私たちの生活に様々な悪影響を及ぼす。被害の規模はピンからキリまで、単純な体調不良や精神疾患、最悪の場合は無差別に人を死に至らしめることもある。
 霊感の強い人にしか見えないモノもいれば、先程の怪異のように、誰にでも見えるモノもいる。
 とにかく簡単にまとめてしまうと、「人の感情から生まれた人ならざるモノ」=「怪異」という訳である。
 大勢の人間を巻きこむ事件となるとニュースで報道されることもあるし、一方で、すぐに襲って来るタイプではない、大人しい怪異もそれなりにいる訳で。一般人である私でさえこれだけの説明が出来るくらいだから、存在そのものが秘匿されているようなものではまったくない。
 日々報道されている事件の中に、当たり前に怪異関係の事件が混ざるようになったのは果たしていつ頃だったのか――。少なくとも私が物心ついた時にはこれが日常だった。怪異が初めて出現した時は、日本中でそれはもう大変な騒ぎになったらしい。
 怪異を見かけても絶対に近づかないこと。凶暴だろうが大人しかろうが、触らぬ怪異に祟りなし、である。

「だから刀持ってたんですねー。あ、えと――」
八十神天間やそがみてんま。悪いね、そっちの名前聞いたのに名乗るの忘れてた」

 珍しい苗字でしょ、と八十神さんは緩く目を細めた。

「ま、個人営業というか何というか、微妙な立ち位置にいるんだけどね、俺」
「へぇ……。怪異討伐って基本は政府の人の仕事ですよね?」
「そ。そことちょっと色々あってさ。色々なことが色々とあった結果が現状ってとこ。一応フリーになったってわけ」
「ええ……全力で事情ボカすじゃないですか……」

 まぁその日会ったばかりの人に自分の過去を洗いざらい話すようなことはしないか、と自分で勝手に納得することにする。

「ところで呉羽、君俺が怪異の心臓喰ったとこ見てたよね」
「あっ……えと、はい」

 八十神さんの問いに、私はこくりと頷いた。
 あの時、驚く以外に出来たことは何もなかった。

「ガキの頃から手当たり次第周りにあるもの口に入れてたら、なーんか他の人間より食える幅広がったっぽいんだよね」
「な、なんて大雑把な分析」
「大抵の人間はあれ見たら腰抜かして逃げるんだけどさ。変なところで度胸据わってんねぇ呉羽は」
「まぁ、もちろん驚きはしましたけど……。自分のこと助けてくれたんですよ、お礼も言わないで逃げるのはどういうものかと」
「うんうん。やっぱ面白いな君」
「え、どこがですか」 

 思わず怪訝な顔をしてしまう。私変なこと言っただろうか。こちらの疑問は全力でガン無視の八十神さんである。

「俺は心臓喰いで怪異の存在を消せるんだ。普通の人間がやったら腹壊すどころか奴らの呪気しゅうきにやられて気が振れるらしいから、ま君はやらないことだね」
「八十神さん以外に怪異の心臓食べる人なんてそうそういませんよ……」

 カン、とフォークが皿に当たる音。
 テーブルに並べられたスイーツ類、最後のショートケーキを食べ終わったようだった。

「呉羽が気になっていそうなことは、こっちからあらかた話したつもりだ。だから俺も、もう一つだけ、俺が気になっていることを聞く」
「? 何でしょ――」
「呉羽。君、何者?」 
「ッ!?」

 ゼロ距離に、なったと思った。
 こちらを覗き込むように、ずいっと寄せられた八十神さんの顔。真正面からまともに見て初めて、――かなり整った容貌をしていることに気づいた。
 黒ではない。言い表すのならそれは闇。闇色の瞳が、私を捉えた。

「まともな人間は、強い弱い関係なく怪異に直接効く”本物の”護符なんて持ってないよ。話を聞いてる限り政府の対怪異特別捜査本部怪特本部の人間でもなさそうだ。それに怪異の追随を許すことなくかなりの距離を走り切った体力と運動神経だって並大抵のものじゃない。ねぇ、何者?」

 それを聞きたくて君をここまで連れてきたんだ、答えてもらうよ、と八十神さんは言う。その圧に気圧されて、私は思わずガタッと席を立った。

「こっ、答えます! 答えますから――! ち、ちち近すぎやけんッ!!いったん離れてくれんか!?」
「お、方言」

 よく分からない一言ののち、八十神さんは比較的素直に身を引いた。
 頬の上気が否めない。一気に息が切れた。
 うおお心臓が! 痛い!

「そんな大層なもんじゃないですけどっ!? 実家が神職やってて、あの護符は上京する時に母が死ぬほど持たせてくれたもので! でもっ、私がこれを使って出来ることなんて、そこらへんにいるふわっとした何かをふわっと浄化するくらいです! 私じゃあんな怪異には到底敵いませんッ!!」
「でも立ち向かおうとしたじゃん」
「あれは実力不相応の短慮の極めです!! さっき言ったじゃないですか身体が勝手に動いちゃうんだって! これ以上もう蒸し返さないで下さいよう……!」

 あっあとほんとにただの就活生です私、あっあとそれと、運動神経の良さは生まれつきといいますか……、人よりちょっと動けるくらいですよ? とだけ最後に付け加えた。
 尻すぼみになっていったボリュームと、それに釣られて冷えていく思考。思い出したようにはっ、と顔を上げると、「ほう……」という顔で、マスターがこちらを見ていた。
 待ってそうじゃんここにいたの私と八十神さんだけじゃないじゃん。ヤバい大声出し過ぎた恥ずかしすぎる。

「ふーん。そっかなるほど。神職ねぇ」

 こちらの慌て具合は露知らず、八十神さんはその後ぶつぶつと何事かを呟いてから、「まぁいっか」とこちらを見上げた。

「悪かったね。長い時間引き留めすぎた。お詫びに今回のコーヒー代は俺が払っておくよ。気をつけて帰りな」
「あ、いえ。とんでもないです……」

 マスター、勘定ツケといてくれる? と言う八十神さん。いやツケるんかい、というツッコミは喉の奥に何とか押し留めた。
 いつものことなのか、静かにこくりと頷くマスターである。
 よっこらせと立ち上がる八十神さんに向かって、私はもう一度、深く頭を下げた。

「本当に、ありがとうございました」
「うん。呉羽、自分の善意で早死にしそうだから――。ま、精々気をつけてね」
「うぅ……。お言葉胸に刻み込んでおきます……」

 席の下に置いておいたリクルートバッグを手に取り、美味しいコーヒーを淹れてくれたマスターにも会釈して、出口に向かう。
 怪異に追いかけられていた時は、鮮やかな夕陽が目に痛かった。しかし今はもう、外は既に真っ暗だ。小窓から覗いた満月の白い光と、店内のランプの暖色のコントラストを横目に、アンティーク調の木製のドアに手を掛けた。

「……?」

 右手から伝わった感覚に、僅かに違和感を覚える。
 手を掛けて、力を籠めた。

(……あれ?)

 ガチャガチャとドアノブを上下させる音が店内に響く。かなりの力を籠めているはずなのに、なぜかドアが開かない。鍵か金具の不都合だろうか。そう思い一度手を離し、再度ドアノブに手を掛けた。

「あ」

 ガチャリ、という小気味の良い音がした。

(何だ、普通に開くじゃんね)

 ふぅ、と小さく息をつき、そのまま外に足を踏み出そうとした。
 前には、進めなかった。
 ――目と鼻の先。ここにあるのが当然なのだとでも言うように、当たり前のように浮かんでいた人の頭くらいの”一つ目”と、がちりと視線が交差した。

「……は?」
「呉羽ッ!!!」

 八十神さんが背後で叫んだのとほぼ同時、凄まじい風圧を顔面に感じた。
 何かが爆発する音。崩れ落ちる音。――やけに遠くで聞こえた八十神さんの声。

 あ、無理だこれ。終わったかも。
 漠然とそう思った。

 すぅっ、と吸い込まれるように遠のく意識を、私は為すすべもなく手放したのだった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?