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女の子が好きと気づいて

女の子のほうが好き。
ずっと昔からそう思っていました。

物心ついたときから、芸能人にしてもキャラクターにしても興味をもつ対象は女の子ばかり。
私はそれに対して、可愛いものが好きな延長で女の子を見るのも好きなんだろうな、くらいにしか考えていませんでした。

小学生になった私は、ごく自然に男の子に恋をすることを覚え、そして高校生になりました。

長年の女の子への興味に名前があるんだと知ったのは、高校1年生のときです。
ちょうどその頃に推し始めた女性声優さんに私が抱いた気持ちは、否定しようのない恋心でした。
彼女を見るたびに高鳴る鼓動と溢れんばかりの好きという想いが、推しに向ける感情の域をこえるものだと気づいたとき、これまで信じて疑わなかった私の「普通」は崩れ去りました。

その日から、長い長い名前探しが始まりました。
本当なら名前は見つけなくてもいいんです。それも立派な1つの在り方です。でも私の性格は、自分が何かわからないということを許しませんでした。
ネット上には、セクシュアリティ診断といって自分がどんな人を好きになるのかを診断してくれるサイトがあり、私はそれを何度も何度も試しました。
セクシュアリティの名前や意味も、沢山たくさん調べました。
それでもピンとくる名前は一向に見つかりませんでした。それどころか、調べれば調べるほどわからなくなっていきました。
「思春期の同性愛は一過性のもの」「女の子にはそういう時期がある」
そんな言葉に何度混乱させられたか。これが恋心なのかすら不確かになって、こんな思いをするのも相手が同性だからなのかと思うと、やるせない気持ちでした。

それから1年以上経って、今は自分に、バイセクシュアル(女の子も男の子も好きになる)という名前をペタッと貼って生きています。
パンセクシュアル(性別関係なく好きになる)と長い間迷っていましたが、それではピンとこない部分もあったので、ひとまずはバイセクシュアルということで納得しています。
絶対にこれだと決める必要はないか、と曖昧を許せるようになりました。大人になったっていうことなのかな。

名前は見つけられました。
自分が女の子を好きになるということにはもう慣れました。
それでも。見つけたことや慣れたことと、そんな自分を認められるかということは全くの別問題です。
私はもともと、自分とLGBTQ+には何の関係もないと思って生きていたので、同性を好きになることに関して、良くも悪くも何も思っていませんでした。偏見がないとも、無関心ともいいます。
だから自分のセクシュアリティに気づいたときには、そうなんだ、くらいにしか受け止めませんでした。とても冷静、というかローテンション。もっと衝撃を受けるものではないのかと拍子抜けしますよね。むしろ優越感すらありました。女の子って素敵じゃん。好きになれるなんてお得に生まれたな、と。
ずっとそのままでいられたらよかったのに。
LGBTQ+について調べていくと、差別的な言葉に出くわしてしまうことがあります。そういうものがいつの間にか私の心の深くまで染み込んできていて、ふと気づけば、これはとても人に誇れるものではないと感じるようになっていました。他のLGBTQ+の方たちを否定する気持ちは一切ありません。ただ、自分のこととなると何故か許せないんです。
もちろん悪いことではないんですよ。それは知っています。でも、知っていてもわからないんです。頭で認められても、心が認めてくれないんです。

時々、どうしようもなく「普通」に生まれたかったとこいねがうことがあります。
クラスメイトが格好いい男の子や彼氏の話に花を咲かせているとき。
同性なのに、ただの友達なのに、どうしようもないくらいにその子を好きになってしまったとき。
男の子にもっと興味をもてていたら、女の子を好きにならなかったら、苦しくなかったのにって。
「普通」なんて概念は人を幸せにしないんだから捨てたらいいのに、私は今も「普通」に囚われたままです。

私には密かな願いがあります。
いつか。いつか、彼女がほしい。
2人なら喜びは2倍に、悲しみは半分にって言うんなら、この罪悪感も誰かと半分こにできるはず。こんな風に生まれついたことを肯定できるくらい愛し合える女の子に出逢えたら、そのときは私も自分自身を許してあげられるはず。
私が私に生まれたことは哀しくなんかないよって言えるように生きたいです。

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