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映像作品を語りたい

お疲れ様です、あおです。
最近映像作品が刺さるものが多くてとても大変で楽しいです。
このパッションが消え失せないうちに!!と思って感想文をしたためました。ただネタバレ上等の上、良くも悪くも赤裸々な感想なので、いい意見しか見たくない!!という方はご注意願います。


⌘公開映画部門

公開映画作品3つ鑑賞に行った。奇しくも3つともそれぞれ別方面にキマってる男たち大集合!みたいなラインナップになった。

★鬼太郎誕生 ゲゲゲの謎

色々な意味でバズってるまさかの鬼太郎の映画。

スーツにタバコに目に傷があり、血まみれ鼻血嘔吐あらゆる体液を垂らすし、戦争帰りで生き残ったからにはなんとしても生き延びてやるという意識で、上に上がるなら何でもやるし知恵も回るけど人間としての良識はあり、なんやかんやで困っている人を放ってもおけず、トラウマ持ちで悪夢にうなされることもある、戦争帰りなので武器の扱いには慣れてる。

水木という性癖の煮凝りみたいな男が出てきたな…。好きです。
目玉オヤジもといゲゲ郎はいつもの通りブレない情の熱い男で最高だった。

舞台がまんま犬神家の一族オマージュで笑った(直近で犬神家を観てたので尚更)。

ただ、映画単体としては好きだけど、鬼太郎の映画として見ると正直微妙…というのが率直な感想です。

映画単体としての出来はかなり良い。アクションも派手だし、いわゆる「大きなお友達」が大好きな男2人のバディもので、ストーリーもハッキリしてて分かりやすいし面白かった。多分鬼太郎という原作を知らずに「男二人が因習村で戦う話」として見たら普通に楽しめてたと思う。

でもあのエグいほどの胸糞悪さにする必要とは…?って思ってしまった。
特に近親相姦の部分。
まだ人や幽霊族をひっ捕らえて養分にしてるというのはわかる。
でも爺さんが自分の孫娘と無理矢理セックスしてる時点でオマージュ元の犬神家より段違いでエグいことしてるんだけど(多分あの口ぶりだと爺さん娘たちもやってそうだし)、それを仮にも「子ども向け作品の名前として知られる」鬼太郎の名前でやる意味はあったの?
鬼太郎自体にもバッドエンド回や、報われない話とか理不尽な話はあるけど(それこそ6期なら幽霊列車の回がそれだし)、こういう方面の最悪な描写は今まで見たことなかったから正直引いてしまった。
多分知らずに来たんだろう親子連れも例のシーンで途中で席を外したのを見たから、「鬼太郎目当てに来た客層が途中で席を外してしまう映画ってどうなの…?」とは思った。

あとあの後親父はどうやって生還してきたんだとか、岩子さんって水木をあそこに捨て置くような性格ではなくない?とか、結局鬼太郎の出生とは特に関わりなかったじゃないのか?どっちかと言うとちゃんちゃんこの誕生の秘密だよね?とか、「鬼太郎映画」として見ると正直引っかかる部分が多かったです。

なんとなく映画コナンの純黒で安室と赤井のシーンが何故か大受けして「???」ってなってた頃と同じ質感を勝手に感じてしまった。

★ゴジラ-1.0

こっちはそれこそ戦後直ぐの日本が舞台で戦争帰りの敷島浩一が主人公。この男も別ベクトルで癖の塊だった。

敷島は特攻隊だったけど臆病風に吹かれて「お国のために死ぬことができず」、更には自分の臆病のせいで非戦闘員の仲間達も助けられずに逃げてしまい、結果間接的に殺してしまった、という罪悪感とトラウマで心が瀕死状態からスタート。
それでも典子や明子と出会い、バイト仲間とも仲良くなり、日常生活が段々と送れるようになって、「自分も生きて良いんだろうか」と思い始めた矢先の悲劇。

すごいねっとりと丁寧に曇らされる敷島にフェチズムを感じた。

トラウマに心が蝕まれて過呼吸になってパニックになり、幻想と現実の境が分からなくなって狼狽して身を小さくしてしまう敷島かわいそうでかわいい。
喪服姿で死んだ目でぼんやりと家の梁にもたれていたり、拘束されて水責めをくらう敷島が余りに「癖」でびっくりした。
で、ゴジラを退治する部隊が出来てるんだけど参加する?という野田先生の誘いに目に光が入るのが凄かった。キラキラじゃなくてギラギラ。まさに眼球に油を差したような感じだった。
神木隆之介は目の光を演技で操作できる人なんだと思った。

覚醒後の覚悟ガンギマリ状態の敷島も目線で人を殺せそうな威力あって好き。ブランクがあるとは思えない操縦捌きも好き。

水木と敷島が同年代ということもあり結構比較されているのを見るけど、個人的に似てるなと思ったのは2人とも「こんな自分が人を愛する時なんて来るんだろうか」となっていた点。ただ水木の場合は「今こんなに自身のことでいっぱいなのに、そんな可能性あるんだろうか…」と未来に対して懐疑的な言い方に対して、敷島は「俺なんかが人を愛して家庭を作るなんてやっちゃダメなんです」と自罰的だったところは異なる。心に棲みつく罪悪感の濃度の違いだと思う。
だからこそ2人とも「許し」の形が養父になり、愛のある家庭を築いていけるようになった、という事なんだろうね。

敷島の「自分の中の終わらない戦争に決着をつける戦い」の相棒が完成する間もなく終戦となったため活躍する機会がなかった震電で、1人と一機で本当のピリオドを打つ、というのも好き。

ストーリーの構成自体はシンプルで分かりやすい。
国も助けてくれない、物資もない中でやれる事は全力でかき集めて知力を尽くす闘い方好き。
CGの技能が比較的自然でストレスなく鑑賞出来た。
シンゴジラの時もそうだったけど、登場人物全員が人間出来すぎていたから成功した作戦でもある。
ただ「国が助けてくれないんだから自分たちで何とかするしかない!!」と鼓舞して士気を上げるシーン、良いシーンとして描かれてるけど個人的にはブラック企業ばりの奴隷精神を感じて微妙な気持ちになった。

「やりたくないことでも誰かが泥を被らないといけないんだ!!これからは自分たちが新しい日本を作るんだ!!」と鼓舞していたけど「国は信用できないから自分たちが命を懸けてでもやり遂げて見せる!」という特攻精神が染みついてるのが、結局のところ根本的な精神は変わってないんだな…と悲しくなった。個人的にはそこは「ふざけんな!こんな時までアメリカやロシアのお伺い立てかよ!!」とブチ切れるところだと思うし、ゴジラが日本以外も襲う可能性だってゼロじゃないんだからそれを種にして外交作戦にも持ち込めなかったのが悔やまれる。

マイゴジでは「情報隠蔽や国民に丸投げするのはこの国のお家芸だ」と腐してたけど、そう考えるとシンゴジではその「国を担うトップたちが率先して国を守るために死力を尽くす話」というのがなんかこう…勝手にグッと来た(世界戦は全然違うんだけども)

★首

大体全員頭がイッちゃってる戦国バイオレンスラブストーリー作品だった
男色シーンがあるとは聞いていたけど初っ端からガッツリヘビーでびっくりした。「衆道」は単に男色の意味以外にも「恋や信頼といった情を武士道精神を絡めてお互いに命をかける契り」でもあったので、それも踏まえてみるとまた趣がある作品だった。

あの時代で「愛着表現としてのキス」というのが一瞬アンバランスさも感じるけど、思えば春画でガッツリキスシーンあるもの多いし、ググったらどうやら「口吸い」の文化は平安時代からあったそうで(今昔物語の中に口吸いの描写がある)。
そして何より豊臣秀吉が側室の淀君に送った手紙の中に「口吸い」という言葉で愛情表現していた記録も残っているという。
関係ないけど旧約聖書でも既にキスの描写があるので、文化は違うのに愛情、性欲表現が「口を重ねる」と共通してるのがすごいよね。


主な構成としては
・信長、光秀、村重の地獄の泥沼三角関係
・コント部屋と化すたけし軍団ならぬ羽柴軍団
・安定してて相対的に一番穏やかな徳川一派
という感じ。

その三者間を曾呂利一行を行き来させることで、ストーリーを上手く回す、という展開づくりがスムーズできれいだなと思った。

明智光秀は一見シンプルにイッちゃってる信長とメンヘラ気質のメインヒロイン村重、自分を陥れようと画索する羽柴軍団に挟まれてる苦労人ポジだけど、光秀も捕まえてきた庶民に信長のコスプレをさせて斬り捨てることでストレス発散してるというヤバい奴で笑った。あと強火『魔王信長』推しだった。

光秀以外の部下は信長の暴れっぷりを恐れはしても魔王「みたい」という評価で、あくまでも「第六天魔王」は比喩表現なんですよ。それは信長自身もわかっていることで、曽呂利から第六天魔王の小噺を聞いても「そんな話が受けてるのか!俺にも聞かせてね!」と笑顔で返してたのがソレだと思う。(個人的にはあそこのシーン、信長が無礼だ!とブチギレると思ったので好意的な反応だったのが意外だったし、傍若無人だけど割と冷静に世間の評価を捉えてるんだなと思った)

ただ光秀は本気で「第六天魔王の信長」をお慕いしていた。だから信長が「人間みたいな行動」を取ったのが本能寺の変へのトリガーになった。文字通りの強火オタクであった。激重すぎる。

信長は多分オタクが好きなタイプのサイコパスキャラだと思う。やることなすことぶっ飛んでるけど何処となく愛嬌すら感じる。この世はすべて茶番だと言いさっさと全員の首を斬って自分も上がりたがってるところとか、かといって執着がないかと言えば割とド直球に光秀にご執心だし、愛情を返されると無邪気に喜んじゃうところとか。

羽柴軍団は完全に漫才トリオで笑った。セリフなのかアドリブなのかよく分からん。
特に武士の建前とかが含まれた面倒臭い事情あたりを翻訳してくれてる役割も果たしてたように思う。ガイド役も兼ねてたと言うか。
あと史実では「武士の最後として見本とも言われる美しい切腹」と言われた清水宗治の切腹シーンで「なげーんだよさっさと死ねよ」「え!?まだやってんの!?」と突っ込みいれてたのが分かりやすいけど、徹頭徹尾「武士の美学」に対して唾を吐きかけてるような姿勢なんですよね。
黒田官兵衛が武士階級と話す時はにこやかで丁寧な喋り方だけど、茂助や曽呂利たちと話す時はあからさまに雑でガラの悪そうな喋りになってたのが個人的に良かった。

羽柴軍団が「武士の世界の翻訳係」となると曾呂利一行(特に茂助)は「一番視聴者と近い立場で更に百姓目線から見るあの世界の戦国時代の翻訳係」でもあったと思う。
茂助はさっくり言うとあの世界のちいかわだった。
サムライ将軍になりたがった茂助が最後「サムライらしく」首を斬られて終るという落ちと同じ百姓上がりの秀吉が「光秀が死んだと分かれば首なんてどうでもいい!!」とすべてをぶち壊すことで更に輪をかけて大きく物語自体に落ちをつけるところが好き。

個人的にはタヌキこと徳川家康が好きなんだけど、あの飄々としているようで生き汚くて抜け目がないところが解釈一致でテンション上がった。服部もザ・仕事人で相対的に徳川エリアが癒やしスポットになってた。多分メインが重たいので、徳川エリアまでヘビーにしたら胃もたれするからこの采配なんだと思う。今回北野映画を初めて観たのですが、北野武ってバランス感覚が優れているんだなと思った。

⌘配信&放送映画部門

★犬神家の一族(1976年)

個人的に文句なしの傑作。まさか高画質でyoutubeで見えることになるとは。ありがとうございます。
改めて見ると画面の作りが、特に人物を引きで撮るシーンが風景画みたいな構成で芸術的な画面が多かったので、そういう意味でも印象に残る映画になったんだと思う。素朴で洗練されてて美しい。

あと役者の演技力ね…。特に犬神家の三姉妹(高峰三枝子、草笛光子、三条美紀)の名演っぷりがあの世界観を色づけているんだと思った。
息子が殺されたあとの様子が明らかに「イってしまった」感が凄かった梅子こと三条美紀、「恨まれて死ねばいいんだ」とかいうとんでもブーメランをぶっ放したりといい性格してるけど、同時に憎み切れない愛嬌もにじみ出ている竹子こと草笛光子、そして松子こと高峰三枝子。
高峰さんの演技は特に終盤の独白シーンで、「一点を見つめたまま瞬きをせず、独白が進むごとに徐々に目に炎がらんらんと灯っていく」という画があるんですけど、あそこが「ああ、狂ってるな……」と演技で「わからされる」感があって好きです。
神木君の時も思ったけど「目の光すらコントロールする」タイプの役者を好きになりがち。

犬神家のラスボスは犬神佐兵衛だけど、一見とんでも性欲オバケに見えて割と生い立ちが屈折してるが故だったし、「家族への愛情」はあったという(ただ出力方法を致命的に間違えてるので惨劇に繋がる)絶妙な味わいで趣がある。

★リング

こちらも配信してくださってありがとうございます。
あまりにも有名な貞子登場シーンは一回こっきりの上に最後の辺りで「ネタ晴らし」的な扱いで出てくる、というのが改めて見ていて思った。

どちらかというとずっとサスペンスとして話が進んでいて、貞子が直接驚かせてくるというわけではなく、「得体の知れない映像」とか「得体の知れない黒い塊」みたいな得体の知れない事象がじんわり登場人物を追い詰めていくという描き方ですよね。
多分あの貞子のシーンが観客の印象に根強いのは「画自体のインパクト」や「ネタばらし」的な要素も強いんだろうけど、今まで二人が必死こいて謎を解き明かし、貞子の骨も見つけたことで「これで解決した!!」というカタルシスを全部否定する、台無しにする展開だったからだとも思う。
まあ逆に「貞子のひっくり返しシーン」のための「今までのサスペンス展開」だったんだろうけど。

個人的な一番のホラーは松嶋菜々子が当時から全然変わっていなかったこと。リングって25年前の作品なんですってよ…。

★ノートルダムの鐘

金ローでノートルダムの鐘が地上波で見られるとは!初めて自分が観たのは小学生の頃の道徳の授業だったけど、色々衝撃的で脳に染み付いてた作品です。あのオープニングが既に卑怯よね。

カジモドのハッピーエンドが「意中の人と結ばれる」ではなくその前段階である「外の世界へ出ること」だったのが良いよね。そもそも人生のスタートラインにすら立てていなかった、というのがカジモドなので。
エスメラルダがカジモドではなくフィーバスを選んだのもわかる。「結局イケメンが選ばれるんだ」という感想をよく見たけど、そうではなくてエスメラルダにとってカジモドは「愛の足らない子供」で、「対等な立場で恋愛関係を築く対象として見てなかった」から。カジモドもエスメラルダに対して惹かれてた部分は「無償の優しさ・愛」で1人の人間の女性としてより母の愛とかアガペーとか、そういう方面だったし。「ヨシヨシしてくれるママ」として見てる限りは相手もまた対等な立場の人間としては見てくれない、という生々しさ。
だからこそカジモドのベッドの上でも罪悪感なくイチャつけるというグロさもある。本当にディズニーかい?

そして色んな意味で人気が高いフロロー判事。良くも悪くもただの人間なのにあの強烈な童貞拗らせっぷりでヴィランになってるの好き。
ただフロローがカジモドを塔の中で育てていた件で「カジモドを放置せず育ててたから愛はあった、カジモドの好きなものを覚えていたから愛はあった」論調をよく見るけど、それは違うと思う。これはラプンツェルの時にもよく見た論調だけど。
「主導権は絶対的に親にあると刷り込んで支配する」形の時点で「支配系毒親」なんだよ。
毒親という概念が広まっているのに関わらず「放置せず育ててるからそれだけで育て親に愛はある」論も未だ根強いのも不思議だと思う。

フロロー判事はジプシー絶対許さないマンで手段も容赦ないから「人種差別はやめよう!」という論調のためのヴィランみたいな感じに言われがちだけど、個人的には正直それもなんか違う気がする…と思う。

あの世界のジプシーが何してるかと言うと、芸を披露し生計を立ててるのはまあ良いけど、障がい者のふりをして乞食してたり、侵入者は容赦なく殺してたりするんですよね。お世辞にも清廉潔白とは言えない。で、フロローの仕事はパリの治安維持なわけです。「ジプシーがいたら治安悪くなるだろうが!」というフロロー判事の言い分も正直分からなくはないんですよ。じゃあだからといってジプシーがなぶり殺しにあっても良いのかと言うとそう言うわけでもない。現実の移民問題にも近いものがあるけど、黒か白か、正しいか間違ってるか、でハッキリ分けることができない問題だよね。おそらくそういう問題を解決するのに必要なのは「善悪をはっきりさせる」ことではなくて「どうやってお互いが暮らしていけるかをお互いが考える」ことだと思うし。これディズニーだよね??

それでなくとも、「不幸の子がこの世にいる、苦しんでるジプシーに、生まれた時から飢えている者に救いを与えて、みな神の子」と祈りを捧げていたのに、異形のカジモドが現れたら化け物が来たかのようにジプシー達は拒絶の反応を見せるわけです。
自身の不幸を嘆くのと、他人の不幸を同じように嘆くかはまた別の話、というのがまざまざと出ている。何度も言うけどこれディズニーかい???

パリ市民はまさに「愚民」と言う言葉がぴったりの醜悪っぷりで久しぶりに見ても普通に胸糞悪かった。カジモドを集団リンチしておいて、カジモドがフロローという「パリを燃やした悪人」を「退治」した途端に手のひらを返した所とか、リアルで嫌。(褒めてる)
一貫してるのは「暴力」に忠実なところくらいじゃない?
そう言えば友情出演で美女と野獣のベルが出てくるけど、あれもガストンに焚き付けられた民衆が「暴力」でもって「正義感」を掲げて「化け物退治」に赴く流れになるので、ディズニー観の中のフランスの民って割と過激なのかも?と思った。
どちらも共通してるのが「自分で調べたり確認したりせず周りの熱に当てられるままに盛り上がるところ」

昨今ディズニー作品ではポリコレ配慮とか色々言われてるけど、27年も前の作品である「ノートルダムの鐘」のテイストのような作品は、逆に現在のディズニーでは作れないんじゃないのかとすら思える。
上の方でも書いてるけど、登場人物ほぼ全員が「グレー」なんですよね。誰が絶対正義で誰が絶対悪かが言い切れない。それを人種問題や身体的障害要素を織り交ぜた上で描いているのがかなり攻めていると思う。


色々赤裸々に書きましたが新作や過去作も合わせて良作を怒涛のように見ることができてお腹いっぱいです。携わって下さった皆様ありがとうございます。

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