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ひとと大いなるものと宇宙のつながりのはなし

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#横浜

ミカエルの季節

夏、あんなに暑くて暑くて、 何も考えられないくらいあたまも空っぽになって、 全身で、太陽の熱を浴びて、 樹々の葉が緑濃くなるように、 わたしたちも外から流れ込むたくさんのエネルギーを取り入れた。 そして秋がきた。 秋は、空気中に含まれる鉄分が多くなるそうだ。 夏にたくさん取り込んだ熱は、 これから暗闇が深くなる季節、 わたしたちの内面を光となって照らし、 あたためる。 夏にぽかんとしてしまったあたまは、 涼しさとともにようやく目覚めを取り戻し、 しっかりとした意識で、

音と宇宙のつながり「おおいなるもの」

すごくわくわくする本を読んだ。 娘がお世話になっている小児科(内科)の先生が書かれた本。 内容は深く深く もりだくさんだから、 わたしは語れないのだけれど。 (まだ全くかみ砕いて消化できていない) 「クプとギプと上手にかぜをひく子①  〜痛くない未来の注射〜」  山本忍/神之木クリニック院長  コロナウィルスを含む27のウィルスへのインタビュー。 ウィズコロナの時代に贈る書。 その本の中で、 「大いなるもの」と表現されていたところに、 カッコ書きで、 「覆いなるもの」

神秘のはなし

美しいものを見た。 外での仕事を終えて帰宅した夕方。 もうすぐ娘の帰ってくる時間。 ごはんの支度やあれやこれや気持ちは焦るものの、 優先順位がつけられない。 そうだ、お蚕さん、葉っぱまだあるかな? と思い、そばに寄って見てみると、 食べ尽くして、残っているのは乾燥した葉脈ばかり。 みんな元気かな〜と、なんとなく全体を見てみる。 すると、見慣れない様子が目に飛び込んできた。 ひとりのコ。 普通ならば、葉っぱをいっぱい食べて体の外見こそ白いけれども、 うっすら感じる中身

根拠のないことのもつ強みのはなし

根拠のない自信 根拠のない安心感 それは、 なんだかわからないけれども、 わたしは大丈夫と思えること。 なにがあっても大丈夫と思えること。 「証拠」や「証明」「データ」や「数値」がないと納得してもらえない、 受け入れてもらえない、いまこの社会。 でも、 この「根拠のない」なんたるかが、 どれだけ自身を満たすものなのか、 これは感じているひとにしかわからない。 自分の外側に、 判断や評価を求めることなく、 わたしはわたしである、ということを わたしがなんの疑問もためらい

9才が語る②「こころのとびら」と信頼のはなし

「パパは、ぽーんって開くと思う。  今はたくさん寝て、夢の国で学んでいるの。  今はまだ、こころのとびらは閉じているけれど、  ぽーんって開くよ。  ママはじんわり。  今これくらい。  あともう少しで、いっぱいに開く。」 9才娘の言葉。 確かに、夫はとてもよく寝ている。 大天使さんから言葉をもらってからの彼女は、 ここ最近ずっと「こころのとびら」が大きなテーマのようで、 常々よく話してくれる。 「ママにいいこと教えてあげる。  こころのとびらを開いていないと何もはじ

すごいめがねと目に映るもののはなし

15才のときに、コンタクト生活をはじめた。 それから25年、ソフトレンズ→ハードレンズと、 コンタクトレンズありきの、 あたりまえの生活をしてきた。 朝起きると、まずコンタクト入れ、 夜お風呂に入る前にコンタクトを外す。 その日々の繰り返し。 それが、あるときから、 光やその反射が眩しくて眩しくて、 どうにも困った状況になった。 目の疲労も、頭痛もひどかった。 それでも、めがねという選択肢は浮かばなかった。 でも40才を迎えたとき、 ふいに、 もっと自分のこと・からだ

わたしとアクセス・バーズとすべてはつながっていることと

ほんの3ヶ月ほど前、桜が咲き始め、 自粛生活に入る直前に、 絶妙のタイミングで受けることができた 「アクセス・バーズ・プラクティショナー認定講座」。 ご縁がご縁につながり、素晴らしいタイミングのバトンがつながれて、 我が愛する「ふしぎな娘」と一緒に講座を受けることができた。 だから、わたしだけでなく、 娘も一緒に認定プラクティショナーとなった。 それからの日々が、思い返してみたら、結構すごかった。 自粛生活だったけれども、 わたしの内側は、すごい勢いで動いていた。 毎日

9才が語る「こころのとびらを開くこと」

娘とふたり、散歩の道すがらに、娘が話したこと。 いつも「それ」は突然くる。 わたしが、話が通じない夫のことを、 「夫(パパ)の言いたいことがわからない、言いたいならば言葉にしないと伝わらない!」とグチをぽろんとこぼしたら、 「こころのとびら」の話がはじまった。 「こころのとびらを開いて聴かないと入ってこないしね」 「聴こうとしないと入ってこない」と。 「とびらを開けていないと、言葉も外に出ていかない」と。 へぇ~ 娘はそういうふうに会話やコミュニケーションを理解している

風がわたしに運ぶもの

ここ数日、風の強い日が続いている。 季節もよくて、日差しも暖かくて、寒くもなくて暑くもない。 この、どんなに強くても、 からだがぴたりと包まれてしまうような風に、 わたしは「好き」以上の、こころをわしづかみにされる何かをいつも感じる。 記憶のなかの、どこかにそのまま連れていかれそうになる。 初めて「風」をそんなふうに感じたのは、いまからずっとずっと前。 大切なともだちとニューヨークに滞在していたとき。 そのともだちとは、高校で出会った。 知っているひとが誰もいない、入学

信じることが目に映ること

久しぶりのともだちに会いに、久しぶりの場所を訪れた。 久しぶりの場所は、数年前まで毎週一回、 暑い日も、紅葉の季節も、極寒の日も通っていたところで、 小高いお山の上にあり、木が美しく茂り、緑豊かで、風がよく通り、 晴れた日は、穏やかできらきらした空気に包まれている。 もう、顔を見るだけで、心が緩むその仲間たちは、 笑ってしまうほどに、それぞれ、お互い、あるがままで、 芯があって、まっすぐで、愛に溢れて、 一生懸命に生きる姿は、ただただ美しい。 わたしは、ただ満ち足りてそ

9才のわたしが出逢った「いま」につながること

そして、9才のときのわたし。 1月生まれのわたしは、 4年生の大半を9才で過ごした。 2年生のときに、クラスに転入生がやってきて、 その子の影響で、 ガールスカウト活動を知った。 何度か体験に参加して、 3年生から実際に仲間に入りたかったのだけれども、 親が説明会のようなものに参加できずに、 もう一年先送りになった。 そして迎えた4年生。 家庭でもなく、学校でもない「組織」のひとりとして、 「わたし」という個人がそこにいる、ということが、 わたしを満たした。 とにか

ひとが9才のという節目に出逢うもの

ひとは必ず9才のときに、 この先に関わるひとと出会う。 ルドルフ・シュタイナーのことば。 そのはなしを聞いたのは、 去年の春。 娘のクラスの保護者会で。 それ以来、 ずっと、ずっと、この1年、 わたしは9才のときに誰に出会ったか、 今に至る何があったか、を 探し、考え、思い出しつづけてきた。 会うひと、会うひとに、 「9才のときに何があった??」 と尋ねてまわった(笑) 9才のときの印象に残るできごとや、 出会ったひととの関わりが、 いまのそのひとの道につながってい

娘の小児科と宇宙のはなし

昨年のこと。 11月末から激しい咳に悩まされていた当時小学3年の娘。 年末にやっと高熱を出せて、 咳もようやく治まりかけたと思っていた年明け。 またまた高熱を出し、激しい咳ふたたび。 咳が出ることや高熱が出ることに関しては、 「出る理由」があってのことだから、 全く心配はしていないのだけれども、 症状があまりに激しいと、さすがにどうにか和らげてあげたいと思い、 めったに行かない、でもかかりつけの病院へ行った。 娘の学校の校医もしてくださっている先生は、 おおらかであたた

娘が生まれたときの不思議な訪問者

娘がお腹にいたとき、 それはそれは、 これまで生きてきた中で、一番穏やかで幸せな時間だった。 もう、なんとも表現しようがないくらい、幸せに満たされていた。 なぜだか、女の子がやってくる、と思っていた。 わかっていた、というが近いかも。 一応、男の子の名前も考えたけれども、 どんなに考えても、画数を調べたり、意味を調べたりしても、 どれもこれもひとつとして、しっくりこなかった。 そして、女の子がやってきた。 退院して帰宅した翌朝。 まだ陽が昇らないくらいの時間。 布団で