見出し画像

魚が泳いでるような木漏れ日が降って


 眉毛の脱色やんなきゃな、と思いながら数週間、もうさすがに、いい加減やろう、ということで脱色しながら日記を書いている。ヒリヒリする。冷たいの先にあるような痛さ。AとBと描かれたチューブを、1対1の割合で混ぜ合わせてやらねばならんが、目分量のため、計量にはそこまで自信がないので多分Aが少ない。だって質量違うし。しかも眉の色はとても黒々しているので規定時間より少し長めに置くので余計痛い。時間通りに流して全く脱色されていなかった眉を見て、ただただ自分の肌をいたぶっただけやんけ、とムカついたので、戦う気持ちで10分の所15分置いている。よくないかもしれんね。でも仕方ないのよ。みんなもそういう時あるでしょ?何かしら、自分の納得するものを実現するためには、多少の強引さとか、ちょっとしたルール違反とか、さ。こういう時だけは、ってやつ。私はこの眉毛の脱色と、セルフで髪を染める時がそうです。

 

画像1

 今日もまた思いつきで公園へ行った。車の中だとエアコンをつけないと日差しがきつかったのだけど、公園が山の上の方にあるので、だんだん空気が冷たくなっていくのがわかった。着いてみたら想像以上に人気がなくて、いやもう、ほとんど人がいなくて、嬉しい反面、入っていいのかちょっと戸惑いつつも、盛大な独り言も遠慮なく漏らしながら、居心地良さそうな木を選んで、その下にレジャーシートを敷いて寝転んだ。


画像2

 

 最高だった。手入れの行き届いている芝生はベッドのようで、木のドームに覆われて、葉の隙間から柔らかい日差しがちらちらとひかって、降ってきて、風は柔らかくて、どこにもなんの凹凸もうねりも濁りもない、感じているすべてが心地よくて気持ちよくて、早々に眠ってしまいそうだった。柔らかとはこういうことか。気温も快適で、指の先まで血が行き渡っていることを感じた。

 

 そんな空間で『失われた時を求めて』を読む。あれ、結構これは、好きだなあ、出だしからいいなあ、翻訳者によって違うんだろうけど、私は井上さんの翻訳があっているのかもしれないな、なんて思った。好きなやつやん…と気づいた途端に目がどんどん文章を追っていって、浮かび上がる色をどうにか流しながら、楽しんだ。その後行き詰まりまくっている短歌を推敲して、家から持ってきた栗ご飯のおにぎりを一つ食べて、また本を読み推敲した。一人って最高だなあ。もちろん友人や恋人などと過ごす時間も好きだ。相手がいるからこその会話があり、広がりがあり、楽しい。だけど、一人の時間を一人だと自覚しながら過ごすことも楽しいのだ。一人だからこそ許されることがあって、腑抜けた顔もできるし鼻歌まじりに読書をしていてもいい。他者の目がある空間だとしても、こういった場所を選べば、他者がいないし私を見る人はいない(だろう)と思うだけでも、肩の荷が降りてリラックスできる。知っている人がいるかもしれない、見られるかもしれない、会うかもしれない、という理由だけで地元ではうろつけなくなっている私にとってこの空間はとてもありがたいのだ。天気の良い場所へ自分で赴き、深く深く息を吸って吐けることの幸せよ。行ってよかった。

ここ二日三日の私のメンタルは落ち着いているなあ。秋を受け入れることができたのか。どこかで崩れそうな気がしないでもないが月末までは走り抜けたいところである。

画像3


 読みたい本がありつつも短歌のことで頭を使っているので夜、薬を飲んだら素直に眠気がやってきている。眠ることが怖いと思うことが最近減っている。ずっと悩むことも。いい兆し。素直に本能のままに生きれればいい。どうにか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?