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おみくじで運気の途中経過を知る


 朝、目覚めた時からモヤモヤしていた。なんだか心の視野が霞みがかっていて、頭の中に曇天がすこーんと入ったまま居座っているようで、なんともすっきりしない。だけど一日が始まったので起きて、温かいお茶を飲んで、そうこうしているうちにお寺へ行こうという話になったので、30分ほど車を走らせたところにあるお寺へと足を運んだ。

 毎年1回は必ず来ているところで、家族はすでに2、3回目だったらしいが、私は今年初めてだった。秋晴れの良い日だったので、空気がとても綺麗で酸素に濁りを全く感じなかった。大きな木々に囲われていて、目には見えぬ何かにちゃんと守られている場所だと強く感じた。

 一通りのお参りを済ませ、流れで御籤を引くこととなった。今年が終わるまでもう2ヶ月もないのだけど、途中経過ということで引いてみたら有難いことに大吉だった。母も大吉。祖母は中吉だった。実は今まで生きてきた中で引いてきた御籤のうち2回ほど吉と小吉を引いたが、それ以外はすべて大吉なのである。どこで運を使ってるんやと思うけれども、嬉しい気持ちになることに変わりはないので、今回もお財布に忍ばせた。

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 どんなことよりもまず誠意をもち真正面からぶち当たりましょう、残りの2ヶ月。モヤモヤしている理由は何となく自分でもわかっていて、あまりにもままならなすぎて、己の幼さや稚拙なつくりのあれこれにとても嫌気がさしていた。だけど、シンプルに努力も探究量も足りなくて、言い訳ばかりを並べていた。

 でも、【何言うてんねんあんたそんなん自分のちっささ、しょうもなさのせいやで、つべこべ言わんと頑張りなさいや、頑張って頑張りきってから文句つけなされ】とこの御籤に言われた気がした。関西弁ではないとは思うけども。


 お寺にいるうちはモヤモヤはなかったけれど、移動して買い物へとうつると再び暗雲たちこめてして、はあほんま視界が狭いし、なんかもう霧、霧です、掻き分けてもかき分けても果てしないです、とお手上げ状態だったので、あまり深く考えずにBOOK・OFFにて本を買った。ぼんやりしていたのか光文社古典新訳文庫のところにあった『フランケンシュタイン』を手に持っていたはずなのに、帰ってきたらなくって、その代わりにジーキル博士とハイド氏を買っていた。いやこれも読みたかったから手に持った記憶はある。でもフランケンシュタインも持ってたんだけどな。まあいいか、つぎに行った時にでも。


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 読書は楽しい。苦しいもあるけれども、やっぱり総じれば楽しい。癒しにもなるし暇つぶしにもなるし、あれこれ学べるし、はたまたもうそんな意味なんてなくただただ貪るときもある。ぐわーーっと読んでる間の感情もまたぐわーーーってなっていて、この集中力があれば英検1級取れるんちゃうか、いや、もはや作家にもなれるんちゃうかみたいな、めちゃくちゃ心が、意志が、強くなれる時もあって。(あの時の無敵さといったら。何一つ文句もなく全ての家事をまるでロボットのように無駄なくこなすことすら可能になるのだ)

 その時そのときの自分のコンディション次第で得られるものや感じるものがまったく違うし、あの頃その頃、そして今と、同じ本を読んでいた過去の自分と今の自分を繋ぐ架け橋にもなっていて、思い出すシーンや会話でも彩りが鮮明になる。

 本を読むことを好きになれて良かったと思う。今日みたいにモヤモヤモヤモヤしてる日でも本棚眺めてたら頭の中で本を開いているし、あの本のあのシーン良かったな、とか、あのシーンどうなったんやっけ、と思い出したりとか、そのなかには病んでいた自分とか泣いていた自分とか、高揚した気分でいた自分がいて、やってきたこと感じてきたことで今の自分が成り立っていて、生きているんやなあと思う。だから短歌の楽しさにも出逢えたのだろう。巡り合わせってあるよね。何事もそうやと思っている。巡り合わせ。

 なんだろう今日は、いろいろと考えてしまう日なのかもしれない。鈴木晴香さんの『夜にあやまってくれ』を眺めながら早めに眠ろう。眠れるならば。


  しょうがないからもやもやを抱えて布団に入りますけれども、ほかほかの毛布で温まるのだからきちんとほぐれてもらって、頭の中からでていってもらって、明日にはスッキリなくなっていたらいいなと思います。



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