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レスカって言ってる人を二度見する



 (昨日、更新しようと思って書いていたのに寝てしまった。なのでこれは昨日の日記。)



 友人と会う時、予定をあらかじめ決めておくときがほとんどだけれど、思い立ったその日に誘うこともあって、もちろん相手の都合にもよるのでタイミング次第というところだが、急に、思いつきで、顔が思い浮かんだから、会いたくなったから会おう、みたいな方がどちらかというと好きだ。フラットな気持ちでありながらもとても気楽にいられるし、その新鮮さが好き。(予定はみんなあるからね。全部自分の都合なんだけどそういう自由さを許してくれている友人たちには感謝している)予定をあらかじめ立てておいてその日を楽しみにするのもまた楽しいけれど、気持ちのあり方が少し違う。変に期待を裏切らないようにしたいとか考えてしまう。

 そんなわけで昨日は友人と急遽会うことになり、近くへ出かけた。(いや、近くっていっても、片道40分はかかっている)少し暑いくらいの天気で、とてもよく晴れていた。

 行ったところはとある木材の家具屋さんで、毎月最初の土日に木材のはぎれもの市をしているらしく、1g=1円という破格で木材を売っていた。色々な形があった。ああこれは机のアシを作る時に切られたものだなとか、こういう木は何に使われるのだろう、机?棚?だとか、形や大きさ、木の種類などをみながら、触りながら予想するのも楽しかった。その中で、コースターサイズの丸くて薄く切られたものを見つけ、(自分でやすりをかけてクリアを塗ればできるなあ)と思い、何枚か買った。手のひらサイズの、積み木のような四角い木も買った。用途は思いつかないけど欲しくなっちゃって。だってグラム1円。迷わず買った。

 敷地内にはいくつか出張販売に来ていたカフェやクレープ屋さん、海鮮焼きそば屋さんがあったのだけど、一番食べたかった唐揚げや焼きそばは売り切れてしまっていたのでクレープとレモンスカッシュを買った。暑い日のレモンスカッシユ最高だったな。桃のジャムが入ったクレープ、めちゃくちゃおいしかった。え、ジャムとクリームだけなのにこの満足感、そして多幸感。たまには外で食べるのもいいなあ。(食べたのは車の中だけども)

 そのあとはぶらつきながら、夕方に帰宅。大学時代からの付き合いがあって、今までずっと仲良くて、たくさん話しもしてきているのに、新しい一面を知ることがある。そしてまたすきになる。友人にはちょくちょくふざけて『ぼくたちズッ友だよ…』なんていうのだけど、本当にそうであって欲しいと思う。


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 帰ってきたら早速工作をした。お店の人がご親切にも、ヤスリを紙袋に同封してくれていた。すべての面をすべすべにして、それからクリアを塗った。可愛い。木の質感がとてもいい。柔らかくてしっとりしていて冷たい。四角いの、何に使おう。おもりとか?(何の)ちょうどいい使い方思いつきましたらコメントください。このままだとオブジェになる(それはそれでいいか)


 夜、『失われた時を求めて』をパラパラ読む。まだまだ第一部の『コンブレー』から出てはいないのだけど、『私』が誰なのかまったく明かされないままに語り部は記憶を語り続ける。現実を語っていたはずがいつの間にか過去の記憶へと移り変わり、その切り替えがとてもさりげなく、意識して読んでいないと今自分がどのシーンを、何を読んでいるのかわからなくなる。(特に、本当に少しずつ読んでいる私のような場合は)でも、人の記憶と思考は文字にするとこうやっていつまでもいつまでも続いていくのだろうな。何の隔たりもなく行ったり来たりしているのだろう。思考とはそういうもの。ウルフの『灯台へ』を読んだ時も似たようなことを思った気がする。特別大きな感情をもたらすわけではないけれど、この作品を読む間に作られる空間や感情が心地よい。寝る前に読むのが一番いいなあと思う。あとガッツリ読みたいとも思う。10巻まであるから焦らないでゆっくり行こうと思う反面、もういっそ3巻くらいまで一気に読み進めたいという気持ちにも駆られる。難しいことだけど。明日はたくさん読みたい。(今日だね)

 

 そうそう、読書をあまりしない人、いや、まったくしない人から、『活字読んでいると眠たくなるんだよね』とか『この本めっちゃいいよね』と言いつつ実はあんまり読んでなくて解説を読んだのかレビューを読んだんじゃなかろうかっていうような感想を述べられたりしたのだけど、少し前の自分なら、そういう人の話を聞き流しつつももうこの人とは読書の話はよしておこうと思っていただろうが、今は別に、へえそうなんだ、まあそういう考えの人もいるよね、ふむふむってことで終わることができる。読書との向き合い方なんて自由だもんなあ。その人の生活の中に読書、本という存在がどれほどの大きさで、重さで、存在しているかはわからないし、活字が苦手だからまったく読めない割にめっちゃいいと述べた感想はもしかしたら読めないなりに頑張って読んで得た感想かもしれないし、だから何でもいい。何だっていい。それがその人だもの。

 その代わり、私が読書をしていることの意味もあまり語らせないで欲しいというか、なんて言えばいいの、明確な理由があるから読むのもそうだし、ただもう当たり前にあるから読むのもそうだし、だけど、そういう文字に起こして語らねばならんほどの限定的な理由はなくて、(話そうと思えば話せるよ、でもね)とにかく、したいようにやってるので、読書せずに絵を描くときもギター弾く時もあるし、その時の自分が欲しい栄養を補うようにしているというか、好きだからやっていることなので、活字が読めない自分だからって、『そんなに読んで何が面白いの?』と聞くのはやめて欲しいとは思ってしまった。何がってなんだ。何がって。全部よ全部。普通に面白いでもありめっちゃ面白いでもあり、何んとなく面白いもあり、色々なんだよね、いろんな本読んでたらわかるけど、複雑なんだけどさ、真面目に楽しんでいるというかさ、もうなんて言えばいいかわからないのだけど、わかんないんだよね、という前置きをしつつ聞くのは何なんだい、となってしまったのよ。(案の定その人は理由を語らせたあと、いや〜わかんないわ、読めないから、というのだった)

 まあいろんな人がいるよね。好きなようにやりましょう。読みましょう。好きなことをするのに誰かの許可も『わからない』も必要はないのだから。



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