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ドブに捨てたお金とピアノコンクール #エンジンがかかった瞬間

小学生時代に出場したピアノコンクールで、忘れられない話が一つある。


本題に入る前に、まずは僕とピアノの出会いについて触れておく。

兄と姉の影響で、僕は5歳の頃にピアノを始めた。
レッスン初日、いきなり事件は起きた。

レッスン場所はピアノの先生が住むマンションの一室なのだが、姉に連れられてそこに向かう途中、僕はそのマンションの廊下で転んでコンクリートに頭をぶつけて出血したのだ。
レッスン一発目、僕は怪我人として先生の家に上がり込んだのである。

軽傷で済んだので良かったが、あまりにも幸先の悪いスタートだった。
その日、僕は先生の家のソファでずっと休ませてもらっていた。ソファで横になりながら、姉が先生に教えてもらうレッスンの様子をぼんやり眺めていたことをおぼろげながら覚えている。


それでは本題に入る。

レッスン初日は散々だったのだが、ピアノを習っていた兄・姉・僕の3人兄弟の中で頭角を現したのは、つまり頭一つ飛び抜ける活躍をしたのは、初日に頭から血を流していた僕だった。

小学4年生のときにピアノのコンクールに出場したら、いきなり賞を獲れた。
1位〜3位は小学6年生たちが独占していたが、それに次ぐ敢闘賞をもらったのである。

その敢闘賞きっかけで、親も、渡辺先生(ピアノの先生。仮名)も、僕を見る目が明らかに変わった。
それ以前から何となく期待されている感はあったが、「この子、実はとんでもない逸材なのでは…」というような大袈裟な期待に変わったのはそのときだ。

一方で、当の本人は、賞を獲っても、心はどこか冷めていた。
敢闘賞を獲れたのはマグレで、僕よりピアノが上手い人はたくさんいる。
周囲にチヤホヤされながらも、そんなふうに思っていた。
僕にとっては、ピアノで賞を獲ることは、テンションの上がる出来事ではなかったのだ。

第一、僕は子ども時代、ピアノが好きじゃなかった。
そもそも、地味な基礎練習が死ぬほど嫌だったのだ。

だから、ピアノで成功したって、なんにも嬉しくないやと思っていた。
兄と姉がやっていたからという理由で始めたピアノだったが、自分の周りにはピアノをやっている同世代の男の子が一人もおらず、小学生時代の僕は、ピアノを習っていることを恥ずかしいとすら思っていた。


翌年、小学5年生のときにも同じコンクールに出場したのだが、今度は賞を逃した。
そのとき、ピアノへの情熱はほぼゼロで、サッカーに夢中だったので、僕自身はピアノコンクールで賞に手が届かなくても、どうでもよかった。
小4で獲れた賞が小5になったら獲れなくなったという事実は少しだけ頭の隅に引っかかったけれど、そもそも気合いを入れて臨んだコンクールでもなし、決して落ち込んだりはしなかった。


さて、そんな僕も小学6年生になって、またコンクールの季節がやってきた。
僕はその頃もピアノ以外のことに夢中で、ロクにピアノの練習をしていなかった。

コンクール当日まで一ヶ月を切った、そんなある日。
家のリビングで母親が、僕に向けてこう言った。

「コンクールの曲、練習しないの?」

僕は、「気が向いたらする」と答えた。

すると、母がため息をつきながら、独り言のようにこう呟いた。

「あ〜あ、またお金をドブに捨てたなぁ」

お金をドブに捨てた?
僕は母のその言葉が、ずっと頭から離れなかった。

その言葉が皮肉であることぐらい、当時12歳の僕にもわかっていた。
お金をドブに捨てたというのは、コンクールの参加費用は無駄金に終わったということだ。
つまり、僕は母に、本番で演奏する前から、たいした演奏はできない、ましてや賞なんて絶対に獲れない、そう思われているということだった。

僕は、母にそう決めつけられたことが悔しくて、なんとかして母を見返してやりたいと思った。
そこからは、取り憑かれたように練習した。
奇しくも、母のその言葉が、僕に火をつけたのだ。
あの時期は、人生で一番ピアノに触れたと思う。


ところで、僕がコンクールで弾くことになっていたのは、ジョージ・ガーシュウィンの「誰かが私を見つめてる」という曲だった。

ガーシュウィンは、20世紀前半に活躍したアメリカ人作曲家。
アメリカ音楽を作り上げた偉人として知られ、クラシックにジャズにポピュラー音楽に幅広く活躍し、楽曲としては「ラプソディ・イン・ブルー」や「アイガットリズム」が特に有名だ。
課題曲リストの中からガーシュウィンの楽曲を選んだのは、渡辺先生が「ガーシュウィンの世界観は、シロくんに合ってると思う」と勧めてくれたからだった。


さて、練習を重ねて臨んだコンクール当日。

前日まではうまくいくかどうか不安で仕方なかったが、いざ本番となると、不思議と腹が据わり、直感的に「いける」と思った。
この日のために本気で準備してきた自分を、信じないわけにいかない。

ガーシュウィンの「誰かが私を見つめてる」を、僕は思いっきり弾いた。
無我夢中で鍵盤を叩いた。
文句なしの、過去最高の出来ともいえる演奏ができた。

そして、僕はこの演奏で、このコンクールのテッペンの座を掴み取った。
優勝者として名前を呼ばれたとき、僕は右手で小さくガッツポーズしながら、母を見て心の中でこう言った。

「お母さん、見た?お金、ドブに捨てなかったでしょ?」

このことは、口には出さなかった。
「お金をドブに捨てた」という言葉がきっかけで僕が頑張ったと母に思われるのは、なんとなく嫌だったからだ。

「実はあの言葉で僕はやる気になったんだよ」と母に告白するのは、十年以上も先の話だ。
これを伝えたとき、母は「お金をドブに捨てたなんて言ったっけ?覚えてないなぁ。言ったとしたら、ひどい母親だね」と苦笑していた。
確かにあれはひどかったが、結果的には感謝している。


ところで、このコンクールはこれで終わりではなくて、実はまだ続きがあった。

このコンクールは、神奈川県・静岡県の二県合同開催の大会で、このような大会が、全国に10箇所強あるようだった。
僕は、神奈川・静岡大会の優勝を引っ提げて、この地域を代表するピアノ奏者として、なんと全国大会に進むことになったのである。
僕は、この先に全国大会が待っていることを、神奈川・静岡大会で優勝してから始めて知った。なんと無知な少年だったのか。

全国大会は、プロのオーケストラがバックについて伴奏してくれる、夢のような舞台だ。
全国大会に向けて、僕は渡辺先生に乗せられるがまま、ある課題曲にジャズ風のアドリブチックなアレンジを加えて本番に臨むという型破りなチャレンジをすることになるのだが、その話はまた別の機会に。


そういえば、神奈川・静岡大会での優勝が決まった日の夜、興奮状態の母から聞いたのだが、僕の演奏が終わったとき、観客席で渡辺先生が「ブラボー!」と言って一人立ち上がってスタンディングオベーションをしていたらしい。

少し気恥ずかしくも思ったが、なんだか僕はやけにそれが嬉しかった。
僕のような練習嫌いで不真面目な生徒にも、愛情を注ぎ続けてくれた渡辺先生には、頭が上がらない。

あのコンクールまではピアノが好きじゃなくて、ピアノを習っていることを友達に隠そうとすらしていた僕だが、中学・高校時代には胸を張って合唱コンクールの伴奏者を務めるようになり、大学時代には趣味でバンドのキーボードを担当することまであった。
社会人になってからも、ピアノやキーボードが家にない生活は考えられない。

ピアノはいつしか、僕の好きなものに変わっていた。
あのときピアノと向き合って本気で練習に励んだからこそ、僕はいつのまにか、一つ上のステージを覗くことができるようになっていた。
一つ上のステージとは、競争の世界ではなく、自由の世界だ。
自由の世界とは、ピアノは自分を自由に表現する手段の一つであることに、気付いたあとの世界だ。

ピアノは僕に、一つ自信を与えてくれた。
自信を得たのは小学校6年生のときにコンクールで優勝を掴み取った瞬間であり、その栄光の火付け役となったのは、母のあの一言だったのである。


おわり

#エンジンがかかった瞬間

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