好きになれない言葉ランキングTOP5
好きになれない言葉ランキングとは
自分には、好きになれない言葉がいくつかある。
言われて気持ち悪さを感じたり、それってちょっとズレてないだろうかと思ったり、そんな言葉たちを今日はランキング形式でお届けしたい。
ちなみに、この記事は、あくまでも一個人の価値観に過ぎず、決して、今から紹介する言葉たちを繰り出す人を軽蔑するわけではない。これから紹介するのは、自分の家族や友人も含めカジュアルに使っている人がたくさんいる言葉でもあり、僕に対してこれらの言葉を向けられたからっていちいち目くじらを立てたりしない。ただ、自分は使わないようにしていたり、人から言われたときには適当に流していたりするだけだ。
また、この手のランキングは常に変動する。これはあくまでも2021年10月11日時点での好きになれない言葉ランキングであることを補足しておく。明日になれば6位以下の補欠組がトップ5入りするかもしれないし、逆に1位独走中のエースが転倒して最後尾に回るかもしれない。
第5位
「他の人と比べたらあなたは幸せでしょ?」
僕はこういう言葉や考え方がどうしても好きになれない。
この手の言葉を繰り出す人があまりにも多いことに、僕に驚いている。
僕は、幸せは相対評価ではなく絶対評価で測られるものだと思っている。誰かと比較してどうかではなく、幸せとは例えば、自分が満たされているか、自分が自分のことを好きでいられているか、自分が大切な人やものを大切にできているか、そういう尺度で語れるものだと思う。
ひとつの考え方として、どこの誰と比較して自分は恵まれているな、と自分が勝手に思う分にはいい。自分自身を慰めたり納得させたりする手段に使うのはいい。ただ、他人が良かれと思って「想像してごらんよ。どこどこの◯◯さん。あの人と比べたらあなたは恵まれてるじゃない」なんて言ってきたら、僕は「客観的に見たらそうなのかもしれないけど、おれの悩みはそれでは晴れないよ。こちらの問題を軽んじたり、おれの幸せを定義したりするような真似はやめてくれ」と思ってしまう。
他人の不幸と比較してこちらの幸せを定義してくるパターンには、次のような派生バージョンも存在する。
子どもの頃、食べ物を残すときに「アフリカには食べたくても食べられない子どもたちがいるんだから」的なフレーズを使って残さずに食べるよう強制してくる大人が多かったように思うが、まさにこれもその一種だ。この手のアプローチも自分には1ミリも響かない。目の前のことが嫌なのに、何故知らない国の知らない人たちの不幸を想像して自分を奮い立たせなければいけないのか。
ちなみに僕は、昔は好き嫌いが多く給食も残しがちだったが、今では生トマトを除いて何でも食べられるようになった。生トマトの話は一旦置いておいて、大人になった僕は基本的にはご飯粒ひとつさえ残さず食べるようにしている。ただし、アフリカの子どもたちを思ってそうしているのではない。世界のフードロスを気にしてそうしているのではない。この料理や食材を作ってくれた特定の人のためだったり、自分の健康のためだったり、そして、色んな食べ物を純粋においしいと思うようになったから、そうしているだけだ。
第4位
「死ぬ気でやれ」
この言葉もよく聞くが、特にスポーツの世界で目にすることが多い。死ぬ気でやれ、死ぬ気でやります。覚悟の度合いを表すフレーズとして、こんな言葉がスポーツ界にははびこっている。2021年の東京オリンピックでも、この言葉を口にしていた選手やメディアを見かけた。
僕はこの言葉が昔からずっとしっくり来ていない。戦いに行くのに、どうして死ぬ気でいくのか。どうして生きて帰ってくることを考えないのか。
特攻隊の自爆攻撃ではないのだから、死ぬ気でやる、決死の覚悟で、なんて言葉は安易に使うべきではない。
世間では、そこまで重い意味ではなく、一種の比喩として、覚悟の大きさを表す意味合いで「死ぬ気で」と表現されているに過ぎないというのはわかっている。ただそれでも、たとえ比喩だとしても、「死ぬ気で勉強しろ」なんて言う親や教師がいたら、自分は耳を疑ってしまう。
命を賭けてまで挑戦することなんて自分にはないから、自分は絶対に「死ぬ気で頑張ります」なんて言わないし、他人にも「死ぬ気でやれ」なんて言わない。命より大切なものはない。生きてこそ、何度だって何にだってチャレンジできるのだろう。
ところで、「死ぬ気で」という言葉を聞くと毎度想起するシーンがある。
小学1年生から高校3年生まで僕はサッカーをしていたのだが、小学校6年生のときのコーチが試合前に「死ぬ気でなんかいくなよ。これは勝負なんだから、相手を殺す気でいけ」と言った。
僕はそのとき、コーチの過激な言葉に驚きながらもどこか納得して、そうだよな、そういう心づもりでいかなきゃな、と12歳ながらに思った。
ちなみに、そのコーチの名誉のために言っておくが、これも一種の比喩で、本気で相手を殺そうとしたり、相手を怪我させたりしようというものでは決してない。ただ、心構えとして、「死ぬ気で」ではなく、「殺す気で」試合に臨むのだという、考え方の違いだ。
もちろん、個人競技や勉強など明確な対戦相手が存在しない場合には当てはまらない。ただ、明確な相手がいる真剣勝負の場合、僕は「殺す気で」戦いに挑む方がよっぽどしっくりくる。真剣勝負の舞台でのし上がるには、ルールの中で、相手をぶっ刺しにいく覚悟が必要なのだ。刺し違えて死ぬ覚悟も時には必要なのかもしれないが、最初から死ぬことを前提に勝負をするなんて僕にはできない。
第3位
「ここまで来たら優勝しかない」
この言葉もスポーツ関係でよく耳にする。特に、メダルやトロフィーがかかった最終決戦前にこの手のフレーズを言う人が多い印象だが、僕はこれにも違和感を感じている。
東京オリンピックのサッカーで、日本代表がトーナメント進出を決めたあと、エースの久保選手がこのニュアンスのことをインタビュアー相手に言っていた。僕はそれを見たときに、「あれ、『ここまで来たら』って、最初から優勝を目指して臨んでいたんじゃないの?大会が始まる前に『優勝しかない』って言ってたのに、トーナメントに進んだ途端『ここまで来たら』って、なんだか変だな」と思った。向上心の高い久保選手に限ってこの言葉を言うわけないだろうと思っていたので、余計に記憶に残っている。
揚げ足取りのように思われるかもしれないが、僕はこういう細かいニュアンスに敏感に反応してしまう。
本人が最初から優勝を目標に掲げていたのであれば、「ここまで来たからには優勝しかない」という言葉は矛盾しているように思えて、違和感を感じる。
仮に、参加することに意義があると思っている人がたまたま勝ち進み、決勝戦を前にこれを言うのなら、それはよく理解できる。また、サポーター達が、「もちろんずっと応援してたけど、まさか本当に決勝まで来れるとは正直思っていなかった。ここまで来たら優勝してほしい」というのは全く問題ない。ただ、もともと頂点を目指してトレーニングを積んできた本人が最終決戦を前に「ここまで来たら」と言うのは、僕からしたら奇妙な考え方だ。
先日バラエティ番組で、ある芸能人が人気急上昇中のあるラッパーにインタビューをして、「1年前のあなたは、今のあなたを想像できるでしょうか?今のあなたの活躍を見せたら、1年前のあなたは驚くんじゃないですか?」といった趣旨の質問をした。
それに対しそのラッパーは「別に驚かないですね。売れるためにずっと準備してきたので」と平然と言ってのけた。そのとき、僕は清々しい気持ちになった。
謙虚さを美徳とする日本人の美学には反するのかもしれないし、このような受け答えはドラマティックさにも欠けるのかもしれないが、昔から成功する自身をイメージしながら結果的にトップに登り詰めたスターには、これぐらいのことを堂々と言ってもらいたい。
もし僕がオリンピック選手で金メダルを賭けた試合に臨むことになったら、「これまでは通過点。金メダルを獲ることをずっと目標にやってきた。良い準備をして決勝に臨みます」と飄々とした顔でさらっと言ってのけたい。インタビュアーから「死ぬ気で勝ちに行くということでしょうか?」と聞かれたら、「いえ、殺す気で行きます」と答えるだろう。
第2位
「嫌ならやめればいいじゃん」
この言葉は、少し乱暴な言葉だと思う。本気で悩んでいる相手に対し、「嫌ならやめたら?」という極論を投げかけるのは攻撃的ですらある。
この言葉が投げられるに至るには様々なシチュエーションがあるだろうが、「仕事」に絞って考えてみたい。
終身雇用がベースにあった日本社会も、今では転職が一般的になりつつある。また、インターネットやSNSの普及で、自分が今見ているこの世界以外にも選択肢があるのだと知る機会が生まれたことも大きな変化だ。このような時代の変遷の影響もあって、余計に「今の環境が嫌なら環境を変えたら?」という言葉が飛び交うようになっているように感じる。
当人にしてみれば、今の環境は嫌だけど辞めるのも嫌だ、嫌だけどこれは我慢するつもりだ等々、複雑な思いを抱えていることだろう。それに対し「嫌ならやめろ」というのは、一切の事情を無視した過激な助言だ。当人が劇薬のようなアドバイスを求めている場合を除いて、この手の助言は控えた方がいいと思う。もし簡単に辞められるものなら、そもそもこの状況に陥っていない。
これと似た言葉だと、日本について文句を言う日本人に対し、すぐに「嫌なら住むな」「海外移住しろ」と言い出すとんでもない輩がいるが、これも乱暴な言葉だと思う。
周りの環境に100%満足して日々過ごせている人など、殆どいないだろう。家族、友人、地域、会社、国、自分の関わること人や組織、場所に対して全く不満のない人間など、見たことがない。みんな、納得いかないことがあっても、折り合いをつけて生きていくのだ。
ちなみに、僕自身は、日本に対して気に入らないところや不満は沢山あるが、それでも日本が好きで日本に住みたいと思っているし、日本人であることに誇りを持っている。
第1位
「人生の半分損してる」
これは、ギャグ風に使われ始めた言葉だと思う。初めて聞いたときは、物事を薦めるのに面白いアプローチだなと思っていた。でも、使う人があまりに多くなり、擦られ過ぎて陳腐化し、且つ相手の人生に対して配慮のない言葉なので、自分はどうも好きになれない。
この言葉が使い勝手がいいのはわかる。自分も人に何かを薦めるとき、「これを知らないなんて、人生の半分損してるよ」的な言葉をかけたくなることはある。ただ、自分が言われて、じゃあそれで試してみようという気にはならない、つまりいい気がしないので、相手にも言わないように気をつけている。
僕の場合、他人に「トマトのおいしさを知らないなんて、人生の半分損してる」と言われても、全く刺さらない。それを言われたからといって、よしトマトを食べてみよう、とはならない。
少し脱線するが、「このトマト、おいしいから騙されたと思って食べてみな。この味付けだとトマトらしさが全然ないから、君も食べれると思うよ」的なことを人から言われることもあるが、この場合、だったらわざわざこのトマトを食べる必要があるのか?と思ってしまう。トマトらしさがないトマトを食べて、ああ、このトマトはおいしいねとなったとて、それはトマトの本当のおいしさを知ったことにはならない。仮にこのアプローチの主目的がトマトのおいしさを知らしめるためではなく、トマトの栄養を接種させることだったとしても、それは他の食材でカバーするから、大きなお世話だ。
自分の中では、生のトマトが無理というのは、30年間生きてきてこれまで揺らぐことのなかったひとつの価値観なのだ。トマト無しで人生を損するよりも、トマトを強制させられることの方が自分の人生に損害をもたらすことは言うまでもない。
さて、1位は殆どトマトの話になってしまったが、言いたいことは、自分の好きなものを他人に押し付けて、他人の人生に土足で踏み込むような言葉は、僕は好きにはなれないということだ。
そういえば、トマトの他には、ゴルフ好きの友人に「ゴルフをやらないなんて人生の半分損してる」と言われたことがある。トマトも食べず、ゴルフもやらない自分は、人生全てを損で埋められているということになるのだろうか。
まとめ
ランキングまとめは以下の通り。
1位「人生の半分損してる」
2位「嫌ならやめればいいじゃん」
3位「ここまで来たら優勝しかない」
4位「死ぬ気でやれ」
5位「他の人と比べたらあなたは幸せでしょ?」
こういう形で、自分が好きなものや好きになれないものシリーズも、今後書いていきたい。
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